&なんでもそうだろうが、特に対外的な仕事ではスピードと情報管理が成功の不可欠の条件である。一般的で分かりやすい例で言えば、外交交渉などを考えれば分かる。会社でもまったく同じである。それには渉外担当者が経営から完全なバックアップを受けていることが必要である。明治の日本外交が目覚ましい成果をあげたのもそういう環境があったからこそ達成できたのである。社外で目覚ましい成果をあげても、かえって来たら社内で「おれはそんな話は聞いていない」とひっくり返されてはたまらない。
どうも会社の話で説明するのは分かりにくいので大げさになることは承知で政治外交の例をひくのだが、明治の元老政治と昭和の軍部政治の違いである。軍閥というのは独裁ではない。「俺も俺も」の統制のきかない徒党集団が軍部である。実権を握った特定の軍部と言う徒党が一般国民や政党政治家や産業界を弾圧するのである。
さて、副社長の頓死で事態は一変した。会社の意思決定は稟議制度で動いているわけだが、副社長がいなくなると、「おれもおれも」がウジ虫の様に湧いて出た。稟議の回覧先に、全く関係のない、必要のない部署までいれないと文句を言う様になった。持ち回り決済先にいれておかないと、交渉の最終段階になって「おれは聞いていない」の一言で反対されて振り出しに戻ってしまう。
関係先が増えればそれらすべてに根回しをする時間が天文学的に増える。対外的な仕事というのはそうやっていても、どうしたって新しい事態が起こってくる。事後承認なんて反対派は認めないから、また一からやり直しとなる。その上社内の陰謀で資料の作成一つにしても同僚の協力を得られない。新入の女子社員にまで「わたしは鱒添さんの仕事ばかりしているのではありません」と言われて愕然とする。1、2ヶ月前に入って来ておどおどした社員がである。勿論課長が口移しにかげで指導命令しているのである。まるで文化大革命の紅衛兵だ。党幹部が裏で紅衛兵を煽動して文化人を吊るし上げるようなものである。
計画書の配布先が増えれば内容が外部に漏れてしまう可能性が飛躍的に増大する。各部では計画案資料を沢山コピーし、課員に検討(けちをつけること)を命じる。課員達は極秘のハンコが押してある資料を無造作に乱雑なデスクの上に置いている。週に何回か社内を我が物顔に巡回しにくる業界紙の記者がいるが、彼らは机の上に放り投げてある資料をめざとく見つけて手に取る。まじめな新入社員で「それはいけません。困ります」と記者の手から取り上げようとすると業界紙の記者は総会屋の様に社員を怒鳴りつける。古参社員は黙って下を向いて知らんぷりをしている。そうして極秘裏に進んでいた計画は翌週の業界紙に「本誌特ダネ」として載ることになるのである。
そんなこんなで、俺は「私儀この度一身上の都合にて退社致したくお願い申し上げ候」と辞表を出したのである。
「残念ですね」とびっくりしたような顔を作って課長は心にもないことを言った。
別に残念なんて思っていない。しかし俺としても「ざまあ見る。俺たちにたてつくからだ。いい気味だ」と言われるよりかは良いのかも知れない。残念には思っていなかっただろうが、ちょっと驚いたことは間違いないようだ。「あっさりしすぎている」と不審の念を抱いたのだろう。おれが一悶着起こしてから辞めないのが不思議だったのだろう。
「また、どうして急に」といかにも残念そうな表情を浮かべて課長は言った。「身体でも悪いんですか」
「会社に愛想が尽きたんでしょうね」