アリストテレスの言葉だったかな。俺はこうパロッた。「精神は空虚を嫌う」。
「ソフトがなければパソコンはただの箱」、待てよ、これは俺のオリジナルじゃないな。ひところ流行った言葉だ。なんでも俺の独創にしてしまうのが悪い癖だ。
なにか対象がないと精神は錆び付いてしまう。その人なりに対象が必要なのだ。ヒステリー女がなんでもいい、対象があれば火をつけてメラメラ炎を這わせるようなものである。で、無為自然に化して登仙しその行く所を知らず、という訳にはいかないのだ。
小人閑居して不善をなす、というのは本当だぜ。それで読書と音楽鑑賞という予定が狂ってしまい、計画の練り直しを迫られた。考えたね。読書方針が間違っていたのだ。赤子いや青少年婦女子の様に年甲斐も無く本に感動を求めようとしたのが間違いであった。
金を払って本を買う。当然それなりの批判の権利を手にするわけだ。くだらない本はそれなりに逐語的、逐行的に批判、採点していけばいいのである。結構暇がつぶれる。それからは本を読む時には必ずボールペンを握った。余白に批評、罵倒といったほうがいいが、を書き込むのである。たちまちもとの文章が読めないほど書き込みで真っ黒になる。
もっとも批評する気にならない最低のものもある。批評の書き込みをする本はまだ見込みがある。高校で体育の教師が生徒に体罰を加えるのは、その生徒に見込みがあるからである。
生活は規則正しく送ることが大切である。そうしないと長続きしない。そこで次は生活設計である。まず朝はどんぶり一杯の濃いコーヒーを一時間足らずかけてゆっくりと飲むのだが、その時に読むのは哲学書である。これもボールペンを持って読む。哲学書というのは穴だらけでそこをいかにはったりで目くらましをするのかが彼らの腕である。
小説等ではこの種の飛ばし、抜かし、説明なしは手法として、あるいは一種のケレン(あるいは外連味)として許されている。必要でさえある。しかし哲学ではどうかな、違和感がある。そうしているうちに目が醒めてくる。身体のエンジンが温まってくる。そうしたら家事である。炊事、洗濯、掃除である。
それが終わると髭を剃る。顔を洗う。歯を磨く。そのほか朝の行事をこなす(あまり具体的に書くのは上品ではないので具体的には書かないが)。そして窓から外を覗き観天望気だ。傘が必要かどうか判断する。 俺の天気予報は当たる。途中で雨に遭いあわててコンビニでビニール傘を買うことはない。今の傘は20年前に買った物である。
外出して夕方まで市中を徘徊する。大型書店を何軒か回って獲物を漁る。夜は大体小説を読むね。そして寝る時には深夜目が醒めて眠れない時のためにエンタメ系の小説をベッドの脇に用意する訳だ。勿論ボールペンも一緒に。