『意志的なものと非意志的なもの1』19頁、「(我思う)の奪回は全面的でなければならない」とリクールは主張する。
私が中学時代読んだデカルトの記憶では「私が疑うということだけは否定出来ない」という文脈で出て来たような記憶がある。「疑う」というのは「考える」ことの一形態だと単純に思っていた。ところがリクール氏によると「我意志する」つまり「わたしは何々を欲する」というのも「我思う」なのである。「思う」を「考える」と狭く理解するのは間違いらしい。
そこで本屋で岩波文庫「哲学原理」を立ち読みした。48−49頁。「思惟*とは・・・知り・意志し・表象することのみならず,感覚することもここでは思惟することと同じことである」
* 岩波の思惟するという訳語は適切ではない。「思う」と従来どおり訳するのが正しいだろう。思惟という名詞を・する・という語尾をつけて動詞化するのは日本語として品位がない。また思惟をデカルトがいうような意味で広くとるのは日本語の古語に例が見られるだけで現代語にはない。
以下の考察ではゴギトを従来通り「我・思う」と取る。cogitoはラテン語一人称単数現在形である。そこでまず広辞苑で日本の意味を確かめた。「思う」なんて幼児でも使いこなしている言葉を大人が辞書で調べてどうするのだ、と言ってはいけません。それが哲学の第一歩なのです。
広辞苑には「思う」に多数の語釈が乗っている。どの言語でも基幹語には多数の意味がある。
判断する、思慮する、心に感じる。
目論む、ねがう、期待するという意味もある。これはハイデガー、リクールなどのいう企投に相当する意味だ。
おしはかる、予想する。想像する、予期する。
以上に見る通りに「思う」というのは精神活動の所謂知、情、意すべてを含む。
ラテン語ではどうか、同様に知情意すべてを含む活動であると辞典にある。
フランス語ではどうか、cogito ergo sumはデカルトの最初の書ではフランス語であったという説がある。後にデカルトの解説者がラテン語にしたという。ま、それはどうでもいいが、
je pense, donc je suis.
このpenseね、これも精神生活のすべてを含む。思考、知的判断力だけではない。
英語のthinkはどうか。同断である。ドイツ語のdenkenも同じである。
欧州語のいずれもが同様の内包をもち、見て明らかな通りラテン語由来ではなくて土着のケルト民族やラテン民族、ゲルマン民族のことばである。そうして欧州とはまったく関係のない日本語でも、まったく同じ意味と内包を持つ。
これは構造学者ならずとも、人類の基本的な思考方法というか言語発生論理がまったく相互に関係なく同じであることを示している。
さて最後にデカルト本人がどうとらえていたか、である。冒頭に引用した様に、
「哲学原理」「思惟*(>>思う)とは・・・知り・意志し・表象することのみならず,感覚することもここでは思惟することと同じことである」とある。そういえば、デカルトには「情念論」というのがあったな。
そうすると「すべては疑えても私がはな子ちゃんを欲しいのは疑うことは出来ない」ということになるか。
これは疑問である。そこでリクールの「非意志的なもの」が「意志的なもの」に知らない間に干渉している場合もあるわけである。本当は欲しくも何ともないのに、彼女を物にしようとした経験はあなたにはありませんか。それで後でトラブルになることがあるでしょう。やった後で本当は彼女が好きじゃなかった、と思ったことはありませんか。
したがって疑えないコギトは思考(考える)に限定した方が無難の様にも「思われる」のです。