受付のあたりで嬌声が沸き上がった。振り返ると先日も見かけたギンギラギンの老婆である。今日はもうひとり老婆を伴っている。ひび割れた子宮が共鳴するような声があたりを圧した。ワンテンポ遅れて窒息させられそうな脂粉の臭気が押し寄せてきた。綾小路老人ははやくも腰を浮かせた。綾小路老人があいさつに行くと「今日はこの人と打ちます。どうぞそのまま」と老人に言っている。
席に戻ってきた老人にTは「ずいぶん派手なご婦人ですね。碁がよほど好きと見える。強いんですか」と聞いた。
「まあ、強いほうでしょうな。あの人の旦那さんがべらぼうに強くてね。それで打つようになったんですよ」
「よほどお金持ちなんでしょうね。指輪なんかにすごい石を嵌めている」
「旦那さんはだいぶ前になくなっているんですがね。実業家と言うよりかフィクサーというんでしょうな。政商ですよ。怪物みたいな人でね。だけど碁が本当に強かった。呉清源にも二子を置けば絶対に負けないと言っていたそうです」
「アマチュアなんでしょう。呉清源に二子というとどのくらい強いのかな」
「まずアマチュアではトップクラスでしょう。全日本選手権で優勝する実力たったでしょうね」
「そうすると彼女は旦那さんの残した資産で楽隠居ですかね」
「どうかな、それは知らないが、彼女は霊媒なんですよ。筑波山のふもとに道場をもっていて、宗教団体の教祖です」
「へえ、そうなんですか」
「生前は旦那さんといいペアだったらしいですよ」
「いまでも政治家に食い込む連中には自称霊能者が多いそうじゃないですか」
ところで、と老人は矛先をTに向けた。「あなたはなにをしていらっしゃるのですか」
老人の疑問ももっともといえる。まだ定年退職して年金生活を始めるような年齢でもないのに、平日の昼日中に碁会所で時間をつぶすのは一体どういう人だろうと思うのは自然である。Tはよく聞かれる質問なので答えはよどみなく出てくる。
「市中徘徊者です」
「ハイカイ?俳句でもつくるんですか」
「いや目的無く街中をうろつくんです。徘徊と言うのは後期高齢者ばかりではないんですよ。ただ違うのはね、毎日自分のうちに帰ってこられるところです」
「徘徊と聞くとびっくりしますね。逍遥とでもしゃれたらいいでしょう」と老人はアドバイスした。そうか、市中逍遥者に職業を変えようか、とTは考えた。
「ところであなたのお仕事は?」と80歳を超えたと思われる相手に尋ねた。「戦争の語り部ですか」
「あ、いや。そう今日はそうでしたね」
老人の記憶は、世間の取り澄ましたなんの役にも立たない(戦争の語り部)と違いオキシフルで脱色していないところが貴重だとTは思った。