書籍検索機に左手人差し指でポツンポツンと入力していると、後ろからこんにちは、と声をかけられた。Tが振り返ると長身の綾小路老人が上から覗き込むようにして笑っていた。
汚れた歯を下から見上げながらTは挨拶を返した。
A駅近くの書店の中である。「ええちょっとね」
老人は検索機の画面を見て「津山三十人殺しですか」といって目をすぼめた。目がギラリと光った。
検索機の画面が語るところによると新潮文庫にあるらしい。店内在庫なしと表示されている。彼は画面をプリントアウトすると吐き出されたスリップをもぎ取り画面を初期化した。老人のほうを振り返ると「これから碁会所のほうへ」と訊いた。
「いや今出てきたところなんですよ。今日はもう打ちません」
「そうですか、僕もほかに用事があって碁を打つ時間はないけど」と言いながら腕時計を見た。まだ4時だ。いまからマンションに帰るといつも狭い管理室の物陰から彼を監視しているような管理人もまだいるし、彼が苦手なマンションのおばさんたちも続々と買い物から帰ってくる頃だ。
「お茶でも飲みませんか」と言ってみた。
書店と同じビルにある喫茶店に入った。「喫茶店」といういささか時代がかった呼び名がぴったりとする店だった。近頃はちょっと静かで長居が出来る店はカフェというらしい。
老人の教え方がうまいのか、Tにあっているのか最近では老人に対して三子で打てるようになっていた。二人ともホットコーヒーを注文した。もっともメニューにはもったいぶった文字が羅列してあってホットコーヒーなんて言う字はなかったが、若いウェイトレスにはホットコーヒーという注文は通ったらしい。客席は半分ぐらいうまっていた。椅子と椅子の間には、近頃はやりのセルフサービスの店と違い隣の客と肘がぶつかり合うこともない。
「珍しい本をお読みになるんですね」と老人はスプーンで砂糖をかき混ぜながらきいた。
「この間横溝正史の(八墓村)というのを読んだんですが、それのもとになった事件が津山事件だというので興味を持ったんですよ。それに友人に物書きがいましてね。大量殺人事件のノンフィクションを今書いているんですが資料を探してくれなんて言われているものですから」
老人はTを見ると強い口調で言った。「全然関係ありませんよ」
Tは八つ墓村の解説のあとがきで書いてあることと違うのでびっくりして老人を観察した。
「たしかに作品のロケイションは岡山県の中国山地のだが動機は全く横溝正史の創作ですよ。また八つ墓村は連続殺人事件だが津山事件は一晩のうちに29人が殺害された事件です。まったく違う。津山事件をお友達の作家が調べているというなら横溝正史の小説はまったく参考にはなりません」
その自信にあふれた説明にTは驚いて「よくご存じですね」と言った。
「私の家は事件のあった村ではないが割と近くでね。しかも私が生まれる直前に発生している。子供のころから何回も事件のことは聞かされていました」
そうすると、この老人は岡山の人なのだ。
「そうですか。わたしの父も岡山でね。前からなんとなく話し方が似ているなと漠然と感じていたんですが。そうですか、アクセントと言うかイントネーションというかね。とくに語尾のところが」
老人は笑って「岡山弁は特徴がありますからね。もちろん私も東京が長いからさすがに方言は使わないが、イントネーションだけはどうしても抜けないね」