一体何の騒ぎですか、と禿頭老人の横の席に座った第九は聞いた。
「あの客がね、入店から一時間すぎたから、さらに千円いただきますと女の子に言われてわめきだしたらしい。あの風体で女と認められたんだから喜んでもよさそうなんだがね」
なんて言ってるんですか?
「女性に対する差別だと息巻いているのさ。あまり五月蠅く喚きたてるから新聞も読めやしない。見物しいているのさ」
「なあるほど、そういう手もありますね。格好の見世物だ」
「あの客はな、入ってきたときから騒々しかった。スマホをとりだして大声で電話をかけていたんだ」
一時間も続けてですか?
「そうなんだ。他の客が眉をひそめて牽制するように見ても一向に感じないらしいんだな」
すこし、頭がおかしいのかな。
「そこへウェイトレスが一時間経ちましたので追加料金を、とやったわけだ。そうしたら女性差別だと喚きだした」
「どのくらいやっているんですか」
「そうさな、もう三十分以上騒いでいるな」
そりゃ、いい迷惑だと言ったときに客が一人入ってきた。常連の下駄顔老人である。彼も入り口でびっくりしたように立ち止まっていたが、中に入ってきて第九のそばに腰をおろすと「何の騒ぎだね」と尋ねた。
事情を聴くと下駄顔はLGBTのゆすりだな、と呟いた。彼は六尺豊かな相撲取りのような体を立ち上げるとゆっくりとした足取りで「おんな」のところへ近寄った。
「すこし静かにしてくれませんかね。お客はあんただけじゃないんだから」
突然現れた大男がのしかかるようにしながら変に押し殺したような声で言われて、最初は怖くなったらしいが、白目をむいて見上げると二十世紀初頭から迷い込んだらしい大変な年寄とみると元気を取り戻して「なんだ、このじじい。死に損ないは引っ込んでいろ」と返り討ちにした。
「もう千円払うのが嫌なら店から出て行ってもらいてえな」と一オクターブ落とした声で老人は囁くようにおんなに通告した。
「なんだ、てめえは用心棒か」と女はお里丸出しの声でバカにしたように言った。
「べつに用心棒というわけじゃない。お客代表として迷惑だから出て行ってくれと言っているんだ」
用心棒ではないと聞いて元気が出てきた女は「関係ないだろ、黙って引っ込んでろ」
そうはいかない、と老人は返答した。
おんなは老人をにらみ返していたが「用心棒じゃなければ何なのよ。お客代表なんて通用しないわよ」
下駄顔は「問われて名乗るも烏滸がましいが」と急に裏返った声で節をつけてしゃべりだした。
「なによ、なによ」
「問われて名乗るもおこがましいが、知らざあ言って聞かせやしょう。姓は西郷、名は吉之助、名乗りは隆盛とは俺のことだあ」と節をつけて言った。
「バカにしやがって」と女は立ち上がるといきなりコップの水を老人に浴びせた。老人が飛沫を避けようとして上げた手が女に当たったようにも見えなかったが、女は二メートルも後に吹っ飛ばされた。
ハンドバッグが飛ばされて床に落ちて掛け金が外れて中からがらくたが床に散乱した。くしゃくしゃになった煙草のパッケージ、未成年の少女が持つような化粧道具がぶちまけられた。
女は慌ててそれらを拾い集めると「覚えていろ、お前なんかデコボコ組に頼んでここいら辺を歩けないようにしてやる」と叫んだ。
老人は足元にまで転がってきたコンドームの箱を拾い上げると女に差し出した。「ほら、大事な商売道具を忘れちゃいけないよ」と女のあしもとに放り投げた。