異界からかすかに妻の声がする。はやく起きなさいよ、と言っているらしい。半覚醒の第九の脳にはそのように聞こえた。おかしい。妻が自分より早く起きることは絶対に無い。洋美より一時間早く起きて朝食の支度をするのが結婚の契約なのだ。妻の声はダイニングキッチンのほうからする。目を開けようとしたが目やにで上瞼と下まぶたがにニカワで張り付けたようになっていて目が開けられない。
また洋美の晴れ晴れとした爽やかな声が響いた。「トーストと目玉焼きとコーヒーの朝食が出来ているわよ。コーヒーが冷めないうちに起きなさいよ」と催促した。いったい、何事が起ったのだ。とにかく起きて顔を洗おうとベッドが降りた。バカに体がだるい。ふらふらする足で洗面所に向かおうとして本棚にぶつかった。何もないと思うところにぶつかったので勢いがある。驚いて本棚に手を伸ばした勢いで本棚は倒れる。彼女がきゃっと悲鳴を上げる。倒れた本棚は小さなキッチンテーブルの上に倒れかかりテーブルがひっくり返った。皿は吹っ飛んで割れる。コーヒーは床にぶちまけられた。たまごも床に落ちて張り付いた。
目が見えないから床に落ちた卵を踏んづけてつるりと足を滑らしてまた倒れ掛かる。
どうしたのよ、と彼女の怒声が飛ぶ。目が開かないんだ。目やにでまぶたが接着されているらしい。洗面所に行って顔を洗おうとしたんだ、と彼は弁明した。
「しょうがないわね。どうしたのよ」と彼女は浴びせかけたものの、ふらふらする彼をバスルームにまで誘導した。
蛇口の水が温まるのを待って彼は入念に顔を洗った。特に目の周りは丁寧に拭った。数分後どうやら目は外界とのコンタクトを回復した。部屋に戻ると彼女は床に落ちたものを集めて床を拭いている。「ごめんね、食事は作り直すから」というと彼はキッチンに行き、湯を改めてわかし、トースターに新しいパンをセットした。作り直した料理をトレイに乗せて運ぶ。彼女の顔を見るといつになく晴れ晴れとした表情をしている。壁に賭けた時計を見ると七時だった。そうすると彼女は六時過ぎに起きたんだな、と第九は考えた。いつもより一時間以上はやい。
「ずいぶん早く起きたんだね」
「すごくすっきりとした気分なのよ。今朝は」といって彼に微笑んだ。「昨夜は疲れたの」といたわるように彼に聞いた。
彼はああ、とかうう、とか文章にならない返事をした。昨夜はスタッグ・カフェ「しずか」の自警団として彼は夕方から「勤務」していたのである。彼はいつも夕食の支度をするために6時前には帰るのであるが、昨日はそういうわけで十時過ぎに帰宅した。ドアを開けた途端に洋美がものすごい顔で襲ってきたのである。
「それからね」と彼女は気が付いたように言った。「コンドームをごみ箱に捨てちゃだめよ。この間お手伝いさんが変な顔をしていたわよ」