「そうすると、ソクラテスは鉄面皮の大ウソつきということになるわね」と長南哲学徒が思案顔で言った。皆びっくりして彼女を見た。
「だって、、プラトンが『弁明』で書いた神託をPとするでしょう、そうしてクセノポンが書いている神託をXとするわね。そうするとソクラテスは大ウソをついているわけでしょう。偽証ですよね。そのうえ、ソクラテスが日ごろ自分の受けた神託はXだと言っていたのは広く世間に流布していたとすると、すぐバレる嘘を平然とつくのは鉄面皮な言動じゃないの」と理路整然と述べたのである。
後世に伝わるソクラテス像はプラトンが『制作』したものである。ソクラテスに関する記述はややまとまったものとしては他には先ほどから話題になっているクセノポンの「ソクラテスの思い出」というのがあるがあまり彼の思想を伝えるものではなくて言行録のようなものらしい。ほかには少数の断片が、たとえばディオゲネス・ラエルティオスのものがあるだけである、と橘さんが話した。
「それにしてもプラトンがどうしてあんな嘘を書いたのか分からないわね」
「おそらくプラトンが売り出そうとしていたソクラテス像はXではまずかったんでしょうね。どうしてもPでなければならない。プラトンが五十年以上にわたって作り出したソクラテス像の要なんだろうな。つまりPはソクラテスという『イデア』なんだな。どうしてもそう書かなけばならない。現実のソクラテスは『ソクラテスのイデア』の似像だから多少劣化してもしょうがない。しかし書いて後世に残すものは『ソクラテスのイデア』でなけらばならない」
あきらめたように長南さんが呟いた。「ややこしいのね、理解不能だわ。似像だとかソクラテスの制作とか」
橘さんは笑ってプラトンのイデア論は分かりにくい。とくにそれが現実の世界で実現するからくりはもともと無理があるんだよ」
「だけどそうして嘘をついてまでPじゃなければいけなかったの」
「Pの肝心なところはソクラテスより知恵のある人間はいないというところでしょう。プラトンの売り出そうとしたソクラテスはいわゆるソフィスト(直訳すれば知者)より知恵がなけらばならない。それを固める傍証としてどうしてもデルポイの神託はPでなければならないのさ」
「へえ、よく分からない」
「プラトンがソクラテスを売り出す作戦はソフィストに対する徹底的な差別化戦略だったのさ」
「マーケティングと同じですね。それならよくわかる」と第九が同意した。
「『ソフィスト』というのはプラトンの妄執というか固定観念なんだね。彼の対話篇はほとんどがソフィスト攻撃に貫かれているでしょう」