穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

破片まとめ40から49

2019-12-02 07:59:27 | 破片

40:鬼のいない間に命の洗濯

 

いつも四時ごろになるとソワソワしだして、帰る第九が悠々とダウンタウンのソファに

腰を落ち着けているのを不審そうに見て卵型禿頭老人が揶揄い気味にきいた。

「夕食を作らなくていいんですか」

女主人が首をかしげて「外食デートするんですか」聞いた。

「ワイフはアメリカに出張中でね。夕飯はどこかで食べるつもりです」

「ほう、それはいい。鬼のいない間に命の洗濯ですね」と下駄顔が言った。

「いつまでご出張なんですか」とクルーケースが尋ねた。

「あとひと月ほどです」

「まあ、随分長期なのね」と奥さんが驚いたように呟いた。

「うらやましいな」

「それでは存分に羽が伸ばせますね。なにか計画でもおありですか」とクルーケースがうらやましそうに野卑な笑いを浮かべた。あるなら付き合おうという気配を見せた。

「あとで焼き鳥でも食いに行きましょうか」と下駄顔が誘った。

「いいですね。たまに暇が出来るとバカにいいことがあるような期待があるんですよね」

「ところが実際に暇が出来ると暇を持て余すようになる」と下駄顔が注釈を加えた。

「その通りですよ。だけどそれは我々が老人だからもしれないな。あなた方若い人はそんなことを考えないでしょうな」と卵型ハゲがクルーケースの男を見ながら付け加えた。

 

「ご老人たちは暇をどうしてやり過ごすんですか。失礼だが勿論働いていらしゃるようにも見えないし」

「それが我々老人には大問題でしてね。これがばあさんたちならみんな同じことをするから問題はないんだが、我々多少教養がある老人には難しい」

「まあ」と多小非難の混じった間投詞を発したのは美人の女主人である。「それで『ばあさんたち』はどうして暇をすごすの。わたしもまもなくばあさんになるから参考までにうかがっておきたいわ」

「決まってまさあ、数人のばあさんが寄り集まって飯を食うんでさあ。そしてそれぞれの病院通いの話をさも深刻なことのように順々に話すんでさあ」

「ばあさん版饗宴だね」とハゲ老人。

「そういう光景を見ると一体旦那はどこにいるんだろうと不思議だね。後期高齢者のばあさんが群れをなして定食屋にたむろするんだからね」

「亭主たちはみんな先に死んじゃったんだろうね。だってその年齢でダンナたちが勤めに出ているとは考えられない。また、いくらなんでも亭主に留守番させて女房たちが外食に群れるとはいくらなんでも考えられない」

「それで年金で外食に群れるんだろうね。年金制度も悪用されているんじゃないの」

「まあ、それは言いすぎですよ」と女主人は非難がましく明眸を見開いて老人たちを優しくにらんだ。

 

「それであなたはどうして暇を過ごすんですか」と逆襲に転じた。

「ヒマは退屈をもたらし、退屈は死に至る病なんですな。痴呆にいたる病でもある。絶望は鬱病に至る病かもしれないが死に至ることはまれだ。それで私は最近はプラトンを読んでいる」と下駄顔は橘さんを見た。

 

41:十一月十八日

 

知識は万人のためにある。

 

「プラトンてどのプラトンですか」とクルーケースが間の抜けた疑問を述べた。あまり教養のなさそうな彼でも何人もプラトンという名前の人間を知っているらしい。

橘さんもびっくりしたように尊敬のまなざしで彼を見直した。

「俺の知っているのは、といっても恥ずかしながら九十七歳にになって初めて面晤の栄に浴したのは一人だけだけどね」

「どこの国の人ですか」

「ギリシャ人さ、神武天皇がお生まれになったころの人でな。橘さんはご専門だからよくご存じだ、ねえ」と同意を求めるようにパチプロの橘氏のほうを向いた。

「ええ、すこしだけね。古代ギリシャの哲学者ですよ」とクルーケースに説明すると、下駄顔のほうを向いて「前から興味をお持ちだったんですか」

「とんでもねえ、ひと月前でさあ、ボケ防止対策に七面倒くさい本でも読むのがいいのかな、と思いましてな。本は安いのがいい。懐具合の関係もありますからな。そして新しくてきれいなのがいい。古本はさっぱりダメでね。それでこの間本屋で文庫本の棚のあたりをうろついていたら目に入ったのがプラトンだ」

 

「ボケ対策には読書がいいらしいわね。読書はご趣味なんですか」と女主人が言った。

 

「とんでもねえ、年を取ると目が悪くなるから本はなるたけ読まないようにしていたんですよ。それでね、読むのに比べて書くほうはあまり目に負担をかけないからいろいろと書き散らかしていまさあ」

「まあ、小説かなんかを書いていらっしゃるのですか」

「エロ本をね、秘密出版でさあ」

「まあ」と彼女は絶句した。目には尊敬のまなざしが浮かんだ。

「老化防止には指の運動がいいともいいますね」とクルーケースが応じた。

「そうなのさ、指を十本全部使うからね」

老人の理解しがたい発言にみんなはしばらく沈黙した。

 

「ものを書くのみ指を十本も使うのかい」と禿頭老人が訊いた。

「タイプライターを使うからね」

「なるほど、商社マンだったあなたならタイプライターはおてのものだ。そうすると英文の小説ですか」

「そこまではいかない。ローマ字変換ですよ」

「なるほど、それはいい。それでどのくらいのスピードなんですか」と彼自身も昔船会社に居て毎日英文の書類やレターを書いていたハゲ老人がきいた。「一分間に二百字くらい?」

「昔はね、決まりきった商業文ならいくらでも早く打てたが、スピードは落ちているね。それに文章を考えながら打ちますからね。スピードで比較しても意味がない」

 

それが文章を作るほうからまた読むほうに変えたんですか、と女主人がもっともな疑問を述べた。エロ小説の種が尽きたんでしょうか、と遠慮のない質問をした。

「いや、相変わらず書いていますがね。すこし目先を変えて七面倒くさい哲学の本でも読めば老化防止に相乗効果なるかと思ってね。それで岩波文庫のプラトンを二、三冊買いました。岩波の後ろに立派な宣言があるじゃないですか。『知識は万人のためにある』ってね。本屋で一般向けに売っているから私が読んでも誰からも文句はでないでしょう」

「そうね、文言はすこし違っていたような気がするけどね」と誰がが呟いた。

 

42:下っ腹が張ってきてね 十一月十九日

 

それまで珍しく下を向いて考えていた若き女性哲学徒の長南さんが質問を発した。

「エロ小説って自分の体験を書くんですか」とハッタと下駄顔老人の顔を正面から直視した。

思わぬ奇襲攻撃を受けて彼はちょっと驚いたように彼女を見返した。

「それは貴女小説ですからね。虚実織り交ぜてごまかすんでさあ」と言いながら顎の無精ひげを撫で上げた。いかつい大きな手で年相応に節くれだっているが、爪はきれいに切りそろえてある。タイプライターを毎日打っているからつめの手入れには気を付けているのだろう。

 

若き女性哲学徒は追及の手を緩めない。「書いているうちにやはり興奮してきますか」と聞いた。老人は感心したように彼女を見返した。「そりゃあ貴女多少は感情移入しなければ迫真の描写は出来ませんからな」

「興奮するとどうなるのですか」と彼女はあくまで追求した。

どうも弱ったなという風に老人は口ごもったが、「下っ腹が張ってきますな」と観念したように白状した。

「下っ腹が張ってくるとどうなるんですか」

 

&老人は付け足した。「だけどもう歳だから出ませんな」

長南さんは憂い顔で三秒ほどぽかんとしていたが、ぽっと頬を染めた。

だけどもう出ませんな&

 

第九は彼女が無邪気なのか、探求心に忠実なだけのかよくわからなかったが、「そんな殺風景な質問はこの辺までにしましょうよ。あなたにもそのうちに分かってきますから」

と仲裁に入ったのである。彼女は不満そうであった。別にカマトトを装っているわけでも無さそうだったが。世の中が進歩すると不思議な女が出てくるものだ。

 

下駄顔はほっとしたように長い吐息をついた。

「それでプラトンは読んでみてどうでした」と第九は助け舟を出した。

「どうもこうも、不愉快になりましたね」

「それは分からないからですか」と橘さんが遠慮なく言った。

「何を買ったんですか」

「短いほうがいいと思ってね。『ハイドン』、『ラケス』、『メノン』だったかな」

「それは初めて読むにしては特殊だ」と橘氏が言った。

「どういうところが不愉快だったんですか」

「解説によるとプラトンの対話篇というのは問答法というらしいが、あれは問答じゃなくて尋問だね。それも非常に卑劣なやりかただ。ちょうど、警察の取調室で刑事や検事が取り調べるときのように、質問するのはソクラテスだけでしかも質問する理由も説明しない。刑事が取調室で被疑者に対して、『質問しているのは俺だ、お前は答えるだけでいい。なぜそんな質問をするのかなどお前に説明する必要がない』とどやしつけているのと同じじゃないですか」

 

「ふむ、言えてるね」と橘さんが言った。

「プラトンの本はみんなあんな書き方なんですか」

「ほとんどはね。しかしそうではないものも若干ある。あなたは『ソクラテスの弁明』とか『饗宴』を最初に読んだほうがよかったかもしれない」

 

43:プラトンにも色々あらあな

 

どうしてだい、と下駄顔が不審顔で橘さんに尋ねた。

「プラトンの対話篇といっても種々ありましてね。あなたのいうように理不尽な尋問形式なのが多いのだが、」というと彼は充血した眼をごしごしとかいた。今日はパチンコで大損をしたらしい。目が血走っている。一時八万円ほどへこんだのをようやく五万円ほど回復したという。へとへとに疲れた様子である。

 

「だいぶ昔に読んだから記憶を呼び戻すのが大変でね」と大きくため息をついた。

「いや、いいんですよ。それじゃ『ソクラテスの弁明』でも買ってみますよ」

なにね、こういうことなんですよ。とかすかな記憶をだとりながら橘さんは話し出した。

「プラトンがお得意の二分法を借用するとね、対話編ではソクラテスが主人公のものと、聞き役というか脇役のものがある」

「尋問をしないのがあるのかい」

「そういうのがある。尋問しないやつをさらに二分すると、ソクラテスが聞き役というか話の引き出し役のものと、彼が一方的な話者か複数の話者の一人の場合だ」

「なんですい、複数の話者というのは」

「さっきあなたに勧めた『饗宴』がそれです。ある酒席で数人が集まり、それぞれエロスについて自説を述べ合う、順番にね」

「デカメロン形式ね」と女主人は納得した。

「そしてお互いに話したことに感想は述べるがしつこく尋問調で追求することはしない。だから叙述の形式としてはあまり抵抗がなく読みやすい」

「なーる。それで為になりますか」

 

「あんまりならないね、みんな他愛のない話だ」というと彼はお冷をぐいとあおった。

「なかにこんな話をしたのがいたな。大昔は人間に手が四本、足が四本あったというのは知っていますか」

「しらねえな」

「ま、そういう話なのさ、それで人間がだんだん増長して生意気になった。それで神様が懲らしめるために人間全部を二つに裂いてしまったのさ。それで今の人間は手が二本で足が二本になった。性器もそれまでは二つ付いていた」

「へええ」

「まだあるんだよ、人間が二つに裂かれる前にも人間には三種類があったというんだね」

「どういうことなんですか。男と女の二種類じゃないんですか」と長南さんは俄然興味をしめした。

「ちがうんだな。昔もオトコオンナというのがいたのさ。雌雄同体というやつだね」

橘さんは冷えてしまったコーヒーを一口飲んで顔をしかめた。

「それでさ、男の四本脚は二つに体を裂かれても昔の半分を求める。つまりゲイだ。女の四本脚は裂かれた前の自分の半身を求める。これがレスビアンだ。雌雄同体の四つ足人間は男部分の女部分に裂かれたからそれぞれ男は女を求め、女は男を求めるわけだ」

「だれがそんな話をしたんです。その登場人物の名前はどうなっているんですか」と女主人がきいた。

「たしかアリストファネスでしたね」と橘氏は答えた。

「あの有名な喜劇作者のですか」

「そのようですね」

 

「それで『ソクラテスの弁明』もそんな話ですか」と下駄顔がきいた。

「いや、またすこし違う。裁判所での陳述という設定だからソクラテスの長いモノローグです。だから読みやすいでしょう」

 

44:電話の相手は?

 

午前7時カーテンを開けると帝都東京の東北の鬼門を護る筑波山は黒々と神々しいまでの姿を雲海に浮かべていた。昨夜吹き荒れた木枯らし一号に掃き清められて関東平野の上空はチリやスモッグひとつな。炊事掃除などの朝の行事を終えた第九は窓の前に据えた机の前に座るとテレビをつけた。別に見たい番組があるわけではない。習慣みたいなものである。民放のワイドショー番組を一巡りしたが興味を惹くような話題もない。その時、電話が鳴りだした。

 

第九は電話が嫌いである。キャンキャンと騒ぎ立てる電話機をしばらく見ていた。出ようか、出るまいか。出ないわけにはいかない。アメリカから妻がチェックを入れてきたのかもしれない。いまどこにいるかしらないが、アメリカは夕方だろう。妻は出張先から電話してきて彼の在宅を確認するのである。特に日本時間の早朝が多い。彼が彼女のいない間に外泊していないかどうか確認するのである。

 

とうとう彼は受話器を取り上げた。「もしもし」と男の声が伝わってきた。しまった、と

受話器を置くとすぐに又ベルがなりだした。十三回ベルが鳴ったところであきらめて受話器を取り上げた。「もしもし、谷崎さんでしょう」と押しつけがましい闘士風の声がした。

第九は一呼吸して態勢を整えると応答した。

「いま、留守なんですが」

相手は男の声にちょっと驚いたようだった。

「留守っているじゃないか」

「私は留守番をしているだけなんです」

「あんたは谷崎さんの何なの。名簿には同居者はいないがな」

偉そうな口を利く横柄な男だ。むかむかしてきた第九は「あなたは誰ですか」と反撃した。

「管理組合理事長の麻生です」と答えた。へえ、そうなのか、この間妻が臨時総会の委任状を出せとうるさく言ってくるとか言ってやりあっていたがこいつなのか。

「ご用件はなんでしょうか」

「日曜日の臨時総会の件ですがね。早く委任状を出してください。もう三回も催促しているんですがね」

第九は受話器を机の上に置くとテレビのリモコンをとりに行って、騒音をまき散らしているワイドショーの電源を切った。戻ってくると、電話が中断したのにイラついたのか「モシモシ」と大声を出して怒鳴っている。

 

「そうですか。それでは伝えておきましょう。臨時総会はいつですか」

「さっき言ったでしょう。今週の日曜日ですよ」

その日はまだ出張中だ。だがそんなことを説明する必要もあるまい。

「委任状は配布しましたが、あるんでしょうね」

「さあ」

「それじゃ、これから届けに行きますから」

「私は部屋にはいないんですよ」

「なんだって、電話に出ているじゃないか。この電話は谷崎さんのだろう」

「そうなんです。私の携帯に転送するようになっているのです。へへへ、ですから来られてもむだですよ。何でしたらメールボックスにでも入れておいてください」

 

電話を切ってから十分ほどしてからドアチャイムがなった。さっきの麻生が確かめに来たのかもしれない。応答しないでいるとドアの取っ手をガチャガチャ揺すった。インターフォンのモニターで覗くとドアの前に三人ほどいた。皆腕章を巻いている。四十くらいのがっちりとした田舎の青年団長風の男が麻生という男だろう。あとは三十歳くらいの弱々しい男が二人付き従っていた。

 

45:長南さん、「ソクラテスの弁明」をけなす

 

第九は小一時間ほど朝の行事をすますモニターで外の様子をチェックした。朝の行事というのは分かっているだろう、顔を洗ったり、髭を剃ったり、頭に櫛をいれたり、各種排出をすませたり、外出用に着替えたりすることである。もう奴らもいなくなっただろうとモニターを見ると無人だ。もっとも廊下の角あたりで待ち伏せしている可能性もある。

 

ドアを開けるとするりと廊下に出た。なるだけ音がしないようにドアを閉めて鍵をかけた。

管理組合の連中にも合わずに外に出た。

街路に出ると昨夜の風で落ちた茶色い枯れ葉が道路を覆っていた。メトロで盛り場に出ると当てもなく初冬の心地よい街をぶらついた。しばらくして歩数計をのぞくと三千歩を稼いでいた。定食屋で早ヒルをすますと大型書店を巡回する。歩数計をみると五千歩だ。

 

ダウンタウンに行ってみると時間が早いせいか、店内は閑散としている。店内には橘さんしか、知り合いの常連はいなかった。彼の前には長南さんがデンと座っている。客が少なくて暇だから客の前に座って話をしているのだろう。彼らのそばの席に腰を下ろすと

「今日はお早いですね」と挨拶した。今日は景品の紙袋もない。今日は午前中でてひどくやられたかな、と思った。それともと思って「今日は仕事はお休みですか」と聞いた。

「いや、もう一仕事しましてね」と彼はニコニコしている。

「新規開店の店に行ってね、いきなり大当たりの連鎖反応ですよ。二時間でノルマ達成でした」

「へえ、お見事ですね」

「あんまり欲をかかないことが大切でね」

第九が不思議そうに彼の周りを見回しているので、「今日は全部現金に変えました。景品にかえると持ちきれないのでね。長南さんになぜチョコレートを持ってこなかったのか、と怒られていたところです」と笑った。

長南さんがあいまいな笑みを浮かべると席を立ちあがりながら「何にしますか」と第九の注文を取った。

「インスタントコーヒーをスプーン山盛り五杯とグラニュー糖20グラムでお願いしましょうか」

 

彼女が注文を通しに配膳カウンターのほうへ行くと橘氏は「彼女とプラトンの『ソクラテスの弁明』の話をしていたんですよ。彼女はソクラテスは有罪で当然だというんです。なかなかユニークな意見でしたよ。あなたは弁明を読んだことがありますか」

「学生時代にね。ソクラテスの弁明を否定してアテネ市民の有罪判決に賛成だというのですか。たしかにユニークな意見だ」

彼女がコーヒーを載せたトレイを運んできてテーブルにセットした。橘さんが言った。

「あなたのさっきの意見を夏目さんにも話してあげなさいよ」

 

46:不敬罪にあたる

 

長南さんは再び第九たちの前にどっかと腰を下ろした。

「こないだの話を聞いて『ソクラテスの弁明』を読んだんですよ」と憂い顔で長南さんは話し始めた。

「どうです、読みやすかったでしょう」と橘さんが探りを入れた。

「そうですね、ずーっとソクラテスが法廷で訴えられた件は無罪です、と話すわけね。今でいえば被告人陳述とでもいうのかしら。当然法廷だから訴えたほうからの弁論もあるはずだけど、それは書いていないわね。ただ、訴追理由は書いてあって」と話し始めてから、二人を見て「あらそんなことは先刻ご存知よね」と言った。

 

「いやいや話の順序としては必要ですよ。たしか訴追理由は二つありましたよね」

「そうですね、それじゃお二人とも先刻ご案内と思いますが、訴追理由の第一がポリス(アテネ)の神を信じないとか、異国の神とかダイモニオンとかいう怪しげなオカルトっぽい存在の指示を信じたとかいうんでしょう」と橘氏に確認した。

「二番目は怪しげな言説で青年たちを堕落させたというので訴えたわけです」

「それで貴女は二つとも有罪と思うんですか」  

「一番目は明らかにそうですね」

「これは手厳しい。どうしてですか」

 

「デルポイの神託の話が出てますよね。それが『ソクラテスより知恵のある人間はいない』というんですね」

「そうそう。それが不敬罪と関係があるんですか」

「そこまではないわけ。喜んでありがたくお告げをお受けしておけばいいものを、ソクラテスは本当かな、と疑ったわけ」と言うと水を一口飲んで喉を潤した。

「しかも、神様の言葉をためしてやれ、というので当時の有力な政治家や有名な詩人の所に押し掛けて行って頓智問答めいたことを仕掛けたんです。そうしたらやはり自分のほうが賢いことが証明されたと法廷で述べています」

「なるほど、たしかに『弁明』で本人が言ってますね」

「これって不敬虔の最たるものでしょう。神を信じず試すなんて」

橘さんが感心したように膝を叩いた。「いやお見事、確かにその通りだ。キリスト教でもいう、神を試すなってね」

「仏教でも言いますよね、仏は思議すべからずってね」と第九。

「それで二番目の告発も有罪ですか」

「青年を堕落させたということですか。これは何とも言えませんね。実情がわからないんだから」

 

第九が口を開いた。「それで第一の訴状に対する量刑についてはどう思いますか。いくら何でも死刑と言うのは重過ぎると思うが」

「ええ、告発はもっともだと思いますが、量刑はちょっとね、実際のところ、裁判で争うことかっていう違和感がありあすけどね」と長南さんは世故に長けたおばさんのようなことを言った。

 

「しかし、なにしろ2600年前の時代だ。ヨーロッパでは中世でも神を信じないというので火あぶりにした宗教裁判もあったし、近代になってからもアメリカでは魔女狩りで沢山の人が刑死している。現代だって、宗教国家では同じことがあるらしいし、独裁国家では指導者の顔写真が載っている新聞をちり紙に使ったというので処刑される国があるそうだから、死刑と言うこともあり得たかもしれないな」と橘さんが述懐した。

 

「それで気が付いたんだが、デルポイの神託のはなしですが、全然違う話もあるようですね」

橘さんがびっくりしたように聞いた。「どんな話です」

「クセノポンの書いた同じ題名の『ソクラテスの弁明』というのが残っているが,神託の内容がまるで違うし、ソクラテスが神託を疑ったという話でもない」

「それでは今度は夏目さんの話を聞きますかな」と橘さんに促された。

 

 

 

 

47:プラトンが信用できない理由

 

店内に野太い老人の声が響いた。下駄顔が店に入ってきて橘たちを見つけて傍に座った。「今日は早いですな」と声をかけた。「今日は早々とノルマを達成したらしいですよ」と第九が教えた。

老人はエスプレッソのダブルを長南さんに頼んだ。

「今ね、この間話していたプラトンの話をしていたんですよ。彼女が読んでね、ソクラテスは有罪だという判断をしたんですよ」

「へえ、どの本ですか」

「ソクラテスの弁明です」

「ああ、この間、あなたが勧めた対話篇ですな。まだ読んでいないな」

長南さんがエスプレッソを運んできた。

「僕にも話を聞かせてよ。今日は客も少なくて暇らしいからここに座ってさ。ママもまだ来ていないみたいだし」

 

下駄顔に勧められて彼女は仏頂面でドスンと腰を下ろした。彼女はいきなり口を大きく開けると長いしなやかそうな指を口の奥深くに突っ込んだ。みんなが度肝を抜かれてみているが、彼女は一向にその視線が気にならないらしい。奥歯に何かが挟まっているのか、それをせせりだそうとするように無心に指を動かしている。

 

やがて口から指を引っこ抜くと人差し指の先端をしげしげと確かめている。テーブルの上から紙ナフキンを取り上げると指先をぞんざいに拭いた。

 

彼女はおんなじ話をするのは面倒だと思っているのだろう。第九はふと思いついて「そういえばね、私も気になることがあってこの間読んだんですよ」

「ソクラテスの弁明ですか」

「ええ、そうなんですがね、ただしクセノポンが書いた同名の本なんですがね」

「誰だって」と老人が驚いたように大きな声を出した。ポンが付いているから麻雀の本と思ったのかもしれない。

「クセノポン」と第九は繰り返した。

「有名な人なのかい」

「割と知られた名前じゃないかな。岩波文庫にもアナバシスという歴史書がある」

「歴史家なんですか」

「そうなんでしょうね。若いころはソクラテスの弟子でその後軍人になって海外遠征をしている。帰国してから何冊か本を書いているらしい。そのなかにソクラテスの弁明と言うプラトンと同名の本がある。私も知らなかったんですけどね。この間橘さんが話されたんで大昔に一度読んだプラトンのほうの『ソクラテスの弁明』を読もうと本棚を探したんですよ。本棚と言う代物でもないけどね。しかしもうない。引っ越しの時に捨ててしまったんでしょうね。それで本屋で探したらある文庫で、岩波じゃないんだが見つけましてね。それで帰って中を見るとプラトンの弁明の後ろにクセノポンの弁明の翻訳もついていた。プラトンに比べる短いものですがね。橘さんはお読みになったでしょう」

 

「さあ、どうだったかな。はっきりと憶えていないな。それでどうなんです。プラトンと較べて」

「例のデルポイの神託の話なんですけど、プラトンと全然違うんですよ」

「そうなの」と長南さんがやや興味を抱いたようであった。

第九は二つの書物の違いを説明した。さっき彼女が言ったように『ソクラテスより知恵のある人間はいない』じゃなくて、ええとと言葉を詰まらせた。「馬鹿に長いんでね、正確には憶えていないが、」

「いいじゃないか、どうせ翻訳なんだから」と橘

それじゃ、と第九は始めた。「こんなかんじだったな、『人間の中でこの私(ソクラテス)より自由な人間もいなければ正しい人間もおらず、節度に満ちた人間もいない、と答えられたのです(神託を取り次いだ巫女が)』。たしかそんなことだった」

「全然違うわね。どうしてこんなことが起こるのかしら」

「さて、そこですよ。私はこんなに違う記録があるのに、プラトンの注釈者が2600年にわたって全然疑義をはさまなかったのが不思議でね」

「それは妙だわな」と下駄顔

「それで私は考えるのですが」と第九は続けた。

 

48:第九の演説

 

謹聴、謹聴。二千六百年ぶりにプラトンの『ソクラテスの弁明』に校正が入ります、と橘さんがはやし立てた。

背筋に定規をあてがわれたように第九は背中をピンと伸ばして緊張気味に話し始めた。

 

「さて、かのソクラテス裁判で彼が陳述したというデルポイの神託のくだりですが、プラトンとクセノポンの記述がまったく違うというところをご指摘させていただきましたが、どちらが正しいのかということを弁じたてます」

「弁じたてます、というのはおかしいぜ。活動写真の弁士みたいだ」といつの間にか来店していた卵あたまの老人が注意した。

下駄顔も「おれも大昔に活動写真を見たことがあるが、令和の御代に久しぶりに聞くとぎょっとするぜ。二十一世紀だろう。申し上げますとかお話ししますと言ったほうがいい」

 

老人たちのいれたチャチャに第九はいささかむっとした顔をしたが、「それでは、その経緯についてわたくしの推測を弁じ、いや申し上げます」

老人たちはパチパチと手を叩いた。橘と長南は興味深そうに耳を傾けている。

 

「最初に結論を申し上げますが、史実としてはプラトンの記述は間違いであります」

第九はコップのお冷を一口飲むとモップで拭うように舌を出して上下の唇を嘗め回した。

 

「まず記述者の違いを申し上げましょう。いうまでもなくプラトンは裁判当時ソクラテスの現役の弟子でした。ソクラテスは七十歳、プラトンは二十八歳でしたから、弟子の下っ端のほうでしたでしょう。勿論裁判には被告側の介添え団の一員として参加しておりましたが、おそらく忙しく立ち働いていてどっかりとソクラテスのそばに座って最初から最後まで一字一句弁明を聞いている余裕はなかったと思われます。また裁判所には多数の人間が蝟集していて、マイクもない時代ですからソクラテスの陳述をもれなく聞き取れたか疑問です。なにしろ裁判員だけでも五百人いたうえに傍聴人はそれ以上いたでしょう。それにソクラテスは法廷での陳述は慣れていなくて初めて法廷で大観衆の前で話すから、声もよく通らなかったと考えるのが妥当です。現代でもすこし学生の人数が多いと大学の授業でも先生はマイクを使います。アテネ中の人が集まる会場で隅々まで演説を響かせることなど職業的な法廷弁論人でもなかなか難しいでしょう」

第九は話を続けた。

「プラトンは師がデルポイの神託の話をしていたことは理解したのでしょうが、どういう風に話したかは聴取していなかったと思われる。しかし、ソクラテスは弟子にデルポイの神託の話はよくしていたと思われる。だからああ、あの話だなと思って平常話していることをそのまま対話篇に入れたと考えられる。

 

しかし、ソクラテスはデルポイの話を違った風に作り替えた可能性がある。おそらくクセノポンの伝えるのが正しい。なぜ話を作り替えたか、それは明瞭ではないでしょうか。長南さんが鋭く指摘したように弟子たちにいつも話しているように語れば不敬罪の大罪に問われる口実を与えることになる。それで即興で話を作り替えた。なにしろソクラテスは神託で『彼以上に知恵のある人間はいない』と言われたのですから、そのくらいのことは察しがつきます」

「弁士中止!!」と大声で連呼したものがいる。橘である。みんながびっくりして彼を見ると「いや、冗談ですよ。いまみたいな話をプラトンの講釈で飯を食っている大学教師の前でしたら、弁士中止と制止されるだろうということです」と無邪気に笑った。

 

第九はほっとしたようで「最後にクセノポン側の情報源を手短に申し上げましょう。裁判当時彼は海外遠征中で、あとでソクラテスと親しかったヘルモゲネスという人から裁判の様子を聞いて、書いている。おそらくこちらの証言のほうがバイアスがかかっていないでしょう」

 

「なるほど、説得力がありますね。しかし、プラトンの作品は歴史書ではなくて創作でしょう。そうすると虚実織り交ぜるのはそんなに大罪になりますかね」

「読む人次第でしょう。読む人が創作と思って読めば問題はないんじゃないの」と長南さんが指摘した。

「法廷戦術としても神様が『彼以上に正しい人はいない』という人を死刑にしていいんですか、ということになるわね。クセノポンの引用が正しいとすると、なかなか考えたセリフと言えるわね」

 

橘さんは改めて憂い顔の美人を感心したように眺めた。

 

49:ソクラテスの作り方

 

「そうすると、ソクラテスは鉄面皮の大ウソつきということになるわね」と長南哲学徒が思案顔で言った。皆びっくりして彼女を見た。

「だって、、プラトンが『弁明』で書いた神託をPとするでしょう、そうしてクセノポンが書いている神託をXとするわね。そうするとソクラテスは大ウソをついているわけでしょう。偽証ですよね。そのうえ、ソクラテスが日ごろ自分の受けた神託はXだと言っていたのは広く世間に流布していたとすると、すぐバレる嘘を平然とつくのは鉄面皮な言動じゃないの」と理路整然と述べたのである。

 

後世に伝わるソクラテス像はプラトンが『制作』したものである。ソクラテスに関する記述はややまとまったものとしては他には先ほどから話題になっているクセノポンの「ソクラテスの思い出」というのがあるがあまり彼の思想を伝えるものではなくて言行録のようなものらしい。ほかには少数の断片が、たとえばディオゲネス・ラエルティオスのものがあるだけである、と橘さんが話した。

 

「それにしてもプラトンがどうしてあんな嘘を書いたのか分からないわね」

「おそらくプラトンが売り出そうとしていたソクラテス像はXではまずかったんでしょうね。どうしてもPでなければならない。プラトンが五十年以上にわたって作り出したソクラテス像の要なんだろうな。つまりPはソクラテスという『イデア』なんだな。どうしてもそう書かなけばならない。現実のソクラテスは『ソクラテスのイデア』の似像だから多少劣化してもしょうがない。しかし書いて後世に残すものは『ソクラテスのイデア』でなけらばならない」

あきらめたように長南さんが呟いた。「ややこしいのね、理解不能だわ。似像だとかソクラテスの制作とか」

橘さんは笑ってプラトンのイデア論は分かりにくい。とくにそれが現実の世界で実現するからくりはもともと無理があるんだよ」

 

「だけどそうして嘘をついてまでPじゃなければいけなかったの」

「Pの肝心なところはソクラテスより知恵のある人間はいないというところでしょう。プラトンの売り出そうとしたソクラテスはいわゆるソフィスト(直訳すれば知者)より知恵がなけらばならない。それを固める傍証としてどうしてもデルポイの神託はPでなければならないのさ」

 

「へえ、よく分からない」

「プラトンがソクラテスを売り出す作戦はソフィストに対する徹底的な差別化戦略だったのさ」

「マーケティングと同じですね。それならよくわかる」と第九が同意した。

「『ソフィスト』というのはプラトンの妄執というか固定観念なんだね。彼の対話篇はほとんどがソフィスト攻撃に貫かれているでしょう」