第九が居住まいを正して身を乗り出すと、改まった口調で「わたくしも一席弁じさせていただきます」と言った。
「もう一席弁じたじゃないか。なんだいまだあるのか」と下駄顔が驚いたように口を尖らせた。
「いいえ弁じるというほどのことではないのですが、重大な疑問を抱きましたので」
「おやおや今度は疑問ですか」
「それではお許しを得たことにして」と第六は橘さんを見た。
別に異論も出なかったのを見て第六は続けた。
「いわゆるソクラテス文学といわれるものがあるそうで、プラトンやクセノポンの『弁明』のほかにソクラテスをテーマにした作品が当時沢山あったそうですが、現在に伝わっているのは上記の二作品のみというのはどういうわけなのか」
「それが君の疑問なのかい」と卵型頭が確認した。
「そうです」
「君も相当に読書をしていると見えますね。そんな疑問を持つなんて」と橘が批評した。
第九は頭をかいた。「最近妻との専業主夫の雇用契約を改定しましてね。生理休暇を獲得したので、いささか時間が出来ました」
「男にも生理があるの」と長南さんが驚いて無邪気に聞いた。
「ありますとも、いわゆるオンスですな。男にだって特異日があります」
本当なの、と女主人が顔をしかめた。
「やはり月に一回なの」と真理探究者である長南さんが質問した。
皆は彼女を見た。彼らは第九が質の悪いいささか場にそぐわない露骨な冗談を言っていると思って聞いていたのだが、本気で質問してくる彼女のほうに興味を持ったらしい。
第九も腹を決めて若い女性に誠実にこたえることにした。「満月のたびに、というほど規則的でありませんな。大体、妙なことに水曜日が多い」
「それじゃ毎週じゃない。やりすぎよ」と彼女は叫んだ。
なにがやりすぎなのか分からなかった。
「男の人って毎週生理があるの」と彼女は老人たちに聞いた。
「さあ、どうだったかな、昔のことだからはっきりと覚えていないな」と下駄顔は第九に調子を合わせた。「やりたくなる生理なら毎週どころか毎晩だったがね」
彼女は口を開けて第九を見ている。
「それで大分自由時間が増えましたので本を読んでいるんです。夜の労働から解放されたのが大きい。冬の夜長は読書に最適です。マリー・アントワネット風のベッドのことも気にしなくていいし」
「それでソクラテス文学なんてことを知っているのか」
そういわれてみると、と橘さんが始めた。「そんなことは考えたことがなかったが、キリスト教の福音書の場合に似ているね」
「どうしてです」とびっくりして第九が聞いた。
「ソクラテスもキリストも自分で書いたものはない。すべて自分の弟子や周りにいた人間が書いたものだ。ソクラテスの場合はプラトンでありクセノポンであり、名前も伝わっていない人たちだ。キリストの場合は弟子の書いたものだ。いわゆる福音書と言われるものだね。福音書も今は四つだが、当時は多数あったらしい。それが淘汰されてヨハネ、パウロ、ルカ、マタイの四つが生き残った」
「どうして四つだけが残ったんですか」
「それは激烈な教会の内部抗争や教義論争の結果の勝者が四福音書ということですよ」
「するとソクラテスの場合も」
「似たようなものでしょう。実質的にはプラトンの一人勝ちだが、プラトンが開いた教育研究機関であるアカデメイアの存在が大きいだろうね。なにしろアカデメイアは八百年以上続いたんだからね」