形のいい鼻の穴から二本の太い煙を吹きだした。テーブルにぶつかるま一メートル余りは二本のネズミ色の太い棒は形を崩さず直進した。最近煙草が吸えるようになった長南さんはちょっとした芸に励んでいるのである。
「私は親と一緒に分譲マンションに住んでいるんだけどさ、この間上の階の人から回覧が回ってきてさ、今度フローリングに改修するから同意してくれっていうのよ。どうしたらいいか親はわからないわけよ」
「なにが分からないの」と女主人が優しく聞いた。
「同意するって何に同意するか分からないからよ。やるなら勝手に工事をすればいいわけじゃない。何に同意してほしいかまるで分らない。工事が終わってから前より騒音がひどくなっても一切文句を言いません、ということなのかしら」というと彼女は二本目の棒を噴射した。
「理由を書かずに同意書に署名捺印しろというのは不気味だよね。借金の連帯保証人みたいじゃないの。そんなものにメクラ版は押せないわね。私はね、やめとけって言ったのよ」
「親にですか」
「そう、これがね、こういう工事をします。工事中に騒音が出てご迷惑をおかけしますが、とかいうんならよくある挨拶でしょ。同じマンションだし、しょうがないか、とたいていの人は思うでしょ。だけど、そんなときは手ぬぐいとなにか粗品を持ってきて挨拶をするらしいんだけど、同意を求めるなんてことは異常でしょう」
「たしかに非常識だね」と第九は頷いた。
「放っておいたら、本人が来ないで請け負った工事業者が説明にきたの。オイオイ何だっていうんだ、でしょう」
「そんなのは同意する必要はありませんよ」と下駄顔が忠告した。
「やっぱり、それが正解なのね」
「親はね、工事の結果、騒音が発生しても文句を言わせませんという意味じゃないかと心配しているの」
「もっともな心配だな」
「ところがそこへ管理組合の理事が現れたわけ。管理規約でフローリングに改修工事をするときは上下左右の部屋の同意を取り付ける必要があるというのがあるというの。まるで同意しないとこっちがいけないみたいに言うのよ。こういう管理規約は一般的なんですか」と彼女はクルーケースに聞いた。
「残念ながらそうなんですね。さっき話が出た業界の推奨書式にありますね」
「それには目的は書いてあるんでか」
「目的というか規則の趣旨は書いてなかったと思うな」
「ひでえ話だな」
「国土交通省は三流官庁だしね」
これはね、と卵型が付け加えた。「そのマンションの建築業者か管理会社が審査して自分たちの責任で承諾、非承諾を決めるべき問題です。工事の結果、騒音がひどくなるかどうかは完全に技術上の問題です。考えなければいけないのは、そのマンションの完成時の遮音性能とフローリング業者が行う遮音工事のレベルや内容です。これが判断できるのは建築の専門家しかいない。つまりそういう情報を持っていて判断が出来るのは管理会社しかありません」
「たしか、マンションの遮音性能は建築基準法で報告義務があったんじゃないですか。ABCDEというランクがあったはずだけど」とクルーケースは呟いた。
「あるはずですよ、すくなくも学問上は。実際の認可基準にされたかどうかは国土交通省と建築業者の綱引きでうやむやにされている可能性がありますがね」
「フローリング業者が行う工事だって金をかければかけるほど遮音性能は高くなる。例えば防音工事に予算をほとんどかけない場合と十全の措置をする場合とで雲泥の差が出ます」
「一千万円もかければ築数十年のおんぼろマンションの部屋だって室内でピアノが壊れるほどぶっ叩いても隣や下に騒音は漏れない」