午前七時三十七分カーテンを引いた妻が感嘆符をつけたコメントを発した。第九がテーブルから顔を上げて外を見ると一面のミルク色だ。スカイツリーは勿論のこと、二百メートル下の道路や市街も見えない。いや窓の外のベランダの床も1.7メートル先にあるベランダの手すりも見えないのだ。
厚い霧がタワーマンションを覆っている。ここまで霧が濃いのは引っ越してきてから初めてだ。飛行機に乗っていて雲海を突き抜けられなくて一面窓の外が乳白色になるときがあるが、いまもそんな状態である。
「まるで雲の中を飛んでいるみたいね」と妻は詩的な表現をした。
テーブルに戻ってきた彼女は出張中の新聞を読み返した。特に台風がもたらした大雨による洪水被害の記事を選んで読んでいる。
「武蔵小杉のタワーマンションはひどいわね。地下室の電気設備が冠水して使えなくなったんですって」
「電気設備をやられるとエレベーターが止まるからたまらないな。あそこは何階建て何だろう。ここみたいな高さだろう」
「少なくとも四十階以上はあるでしょうね。とても登れないでしょう。しかも買い物袋を提げてね。飲料とか野菜は重いからね。降りるときも無事に降りられるかどうか」
「あなたみたいに階段から転落する可能性があるわね。一体ここのマンションはどうなっているのかな」
「購入した時にもらった資料に出ているんじゃないのかな。調べてみたら。そういえば管理組合がこの間の避難訓練でなんだかメモを配っていたんじゃないかな」
そういって彼は管理組合理事長の麻生からの電話を思い出した。
「そういえば、麻生さんとかいう管理組合の人から電話があったよ」
「なんだっていうの」と彼女はとがった声を発した。
「なんでも委任状を出してくれとかいう催促だったな」
「またか」と彼女は吐き捨てるようにいった。「いつ来たの」
「先週だったの思うな。そうそう臨時総会の委任状とか言っていた。『今度の日曜日』とか言っていたからもうすんじゃったんじゃないの」
「まったくしつこい奴なんだから。委任状回収率がイノチのようなヤツよ、彼は」
「会ったことがあるのかい」
「ないわよ、何かの通知で自分の顔写真を載せていたのを見たけど、田舎の青年団の闘士風の男よ。一種の活動家なのかな。組合の理事長を足場にして名前を売って区会議員に出るために顔を売っているみたいな印象が拭えないわね」
出張中の一か月分の古新聞というとなかなか読み切れない。大雨洪水の記事を拾い読みすると彼女は不動産会社からもらった建物の資料を探した。本棚や引き出しをひっかきまわしていたが、見つからないようでいらいらしだした。
「管理組合に聞いてみたら」と彼が恐る恐るいうと
「冗談じゃないわよ」と怒鳴り返した。それもそうだ、彼女は管理組合と冷戦状態にあるのだ。「それじゃ管理人に聞けば」
「あんたは本当にバカね。管理人なんて管理組合の理事たちとグルよ。管理組合の手先じゃないのさ」