立花氏はママが一杯にしてくれたばかりのグラスの水を一気に飲み干した。それに気が付いた彼女は再びグラスに水を七分目ほど注ぐとユラユラとレジのほうへ去った。
ヘーゲル征服のほうはどうなりました、と下駄顔が聞いた。自粛解除で山手線も混みだしたでしょう。
「そうなんですね、おちおち読書もしていられません。またまた挫折しましてね」と立花氏は答えた。「しかも同じところでね、三合目あたりですか」
「三合目というとどのあたりですかな」とヘーゲルなんて読んだこともない彼は聞いたのである。
「へゲールはね、なんでもが三枚におろしちゃうんですよ。論理学で言うとパート1が有論というんですがね。ここのところは分かるんですよ。断っておきますが、分かるというのは同意するとか理解するということではありませんよ。有論はヘーゲルの独創ではありません。昔から仏教や西洋の神秘思想の一部にあった思想をなぞっただけですからね。
パート2が本質論というんですが、ここから分からなくなる。学生時代もここから何を言っているのか分からなくなった」というとコップの水を飲んだ。
「パート3というのがあるんでしょう」
立花氏は口をぬぐうと「ええ、概念論というんですがね」
「それも分からない?」
彼はジャパニーズサンダルの顔を眺めた。「パート2の続きですからね。もっともわかるところもある。割と陳腐なところもあってね」
「それで一体有論には何が書いてあるんですか」とCCが割り込んだ。
出て言った客の残したカップを取り下げに女ボーイの長南さんが通り過ぎた。ここでは客に使用済みの食器をカウンターまで持ってこさせるような失礼なことを求めない。なにしろコーヒー一杯最低でも千円なのである。
若き哲学徒でもある彼女は客のヘーゲルという言葉を聞きつけるとCCの隣の空いた席に汚れたカップを置くとどっかと腰を落ち着けた。
ふと思いついたように「君はヘーゲルを読んだことがある?」と彼女に尋ねた。
「フン」
フンというのはウン(諾)ということだろうか、と立花さんは考えた。
「いま、論理学の有論の話をしているんだけどね。読んだことある?」
「あれ、SeinとNichtsから世界が生成されるとかいうんでしょう」と彼女は正しい理解を示した。「あれって、仏教でいえば色即是空、空即是色ということじゃないの。違う?」
「違わない。そのとおりさ」
「どういうことか説明してくださいよ」と二人だけで理解しあっているのにいらいらしたエッグヘッドが説明を求めた。
「いや失礼しました。SeinというのはAllと理解してよろしい。Nichitsは英語のNothingですな。そしてヘーちゃんはAll is
Nothingだというのです。つまりA=B、B=Aというわけ」
おかしいな、と一同がつぶやいた。
「おかしいんですよ。伝統的な論理学ではA=A,A is not Bですからね。これを同一率といいます。言わなくったって当たり前ですがね」
仏教の般若心経にある色即是空 空即是色と同じだね、とエッグヘッドが頷いた。
「ユダヤの神秘教にカバラというのがあるが、同じことを言っている。これは紀元後大分たってから成立したから仏教の影響かもしれない」
「ということはヘーゲルがパクったということか」