「それでも有論は何となくわかるのよね」と長南さんは呟いた。「だけど本質論になるとたわごとだわね」
「ほう、立花さんも同じことを言っていましたよ。本質論になるとわけがわからなくなるらしい」
「へーゲルの文章は主語がはっきりとしないわね。精神現象学はなんとなくわかるけど」
「そこがヘーゲルの手品の仕掛けかもしれないな」と立花さんは頷いた。
「人間の意識のプロセスが主題なのか、絶対精神の独白を擬しているものか、人間の意識の発達史を叙述したものなのか、なんなの」と長南さんは聞いた。
「精神現象学は要するにヘーゲル個人の精神発達史としても読める。世上この作品を称してビルドゥングスロマンと評することがあるが、そう取っても読めるね」
「ビルドゥングス何とかっていうのは何ですか」とCCが疑問を放り込んだ。
「教養小説と言いますかね。ゲーテのたとえば「若きウェルテルの悩み」とか「ウイルヘルム・マイスター」なんかは教養小説といわれる。悩み多き若き魂の成長を描くというようなものです」
「絶対精神の成長の歴史、自伝風というのかな」と長南さんは言った。
「そうだね、絶対精神とて、最初は乞食風に、いや間違えた古事記風に言えば、有イコール無だった混沌から成長してきたわけだ。ヘーゲルはユダヤのカバラ文献を慎重に検討したらしい。もちろん彼はヘブライ語はできなかったからクリスチャンカバラのラテン語の孫引きで読んだんだろうがね。
カバラによると神はプロセスであるという。そしてプロセスを踏んで自分自身を成長させた。そして、その成長は人間の精神のなかで行うとされているらしい」
「そうすると絶対精神はウイルスみたいなんだね。人間精神に寄生して成長していくわけだ」と下駄顔が総括した。
立花さんはびっくりしたように彼を見たが、「なるほど、そういえるでしょうね」と答えた。
憂い顔の長南さんがふと思いついたように顔をあげて立花氏を見た。
「ヘーゲルのカテゴリーというのは、そのプロセスを表しているのかな。だってヘーゲルのカテゴリーというのはアリストテレスやカントのカテゴリーとは全然違うでしょう。分類方法が違うというのじゃなくて時間的というか順序的というか、ヒエラルキーがあるというか最後が絶対知か絶対精神となるんでしょう。そうすると、カバラの生命の樹と同じだわね」
「そうだよね、アリストテレスとカントのカテゴリーは視点は違うが、空間的というのかな、順序とかプロセスなんてところは全くない」
「アリストテレスは客観存在の分類法でしょう。カントのは主観側に比重があって認識論的な枠組みだわね。ヘーちゃんとは水と油だわね」