穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

123:現実的なものこそ理性的

2020-07-26 07:36:34 | 破片

ヘーゲルへのサイドノート(四)

理性的であるものこそ現実的であり
現実的であるものこそ理性的である

これは頻繁に引用されるヘーゲルの文章である。といってもヘーゲル読み達のサークルのなかでのことでである。一般にはヘーゲルの後期の著作である法哲学の序文にある文章として紹介されているが、初期の著作「論理学」ですでに繰りかえし出てくる文句である。おそらく論理学の中で十回以上繰り返されている。

これがヘーゲル読み、なかんずくマルクスおよびマルクス主義者の金科玉条となっている。
この対句をなしている文章は比重をどこに置くかで硬直的な現状肯定主義、保守主義になるか、極端な破壊主義的、反社会的なアジビラとなる。

前半に重心を置くと、現実が理性的ではない、現代風の言葉でいえば現実は矛盾に満ちた、不合理な不条理なものであると考えている人間、なかんずく主義者は自分たちが理想と考える姿と乖離があれば、現在の政治体制を暴力を使ってでもぶち壊して「理性的」な現実の実現を求めてもいいというお墨付きを彼らに与える。ヘーゲルの没後押しかけで弟子のマルクスやその追随者達はこれをそう取って読んで驚喜した。もっとも食わせ物のヘーゲルは「現実的であり」としか言っていない。「現実的であるべき」と直截に書けば、これは完全なアジビラとなる。

しかし、後半に比重を置くと現実の社会はもっとも理性的なものであり、これを変革しようとすることはとんでもないという保守主義になる。ヘーゲルは文章になったものでは、彼の時代のプロイセンが理想的な国家であると述べているが、学生に対する講義ではすこし違ったニュアンスをほのめかしていた可能性を排除できない。学生を喜ばせるためか、あるいはそれが彼の本音であったかもしれない。

この考えは概念とはもっとも具体的なものであるという彼の主張と軌を一にする。そして概念は弁証法というスパイラル的プロセスを経て絶対精神(金、賢者の石あるいはユートピア)に到達するのだから、19世紀前半のプロイセンはすでにそのレベルに達していたのか、あるいはマルクスの主張するプロレタリア革命を経てこの大作業が完結するのか。ヘーゲルの文章からは読み取れない。

「やれやれ」とがっがりしたように呟き、大きな吐息をついて立花氏は立ち上がり、PCの蓋を閉じたのである。
・・・要するに、頭書の連句の第二節は老獪なヘーゲルが逃げを打っておいたものだろうか、一種の検閲対策だったのかもしれない、と彼は考えた。