穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

122:「理性的 VS 悟性的」は葵の御紋の印籠である

2020-07-25 08:17:19 | 破片

ヘーゲルへのサイドノート(三) 

「理性的」と一喝すれば、それは水戸黄門の葵の印籠と同じ効果がある(とヘーゲルは期待した)。弁証法は直近の哲学を止揚して一段上に昇ことだから、それはヘーゲル直前の大哲学者カントの哲学を止揚することに他ならない。論理学でも序論で相当部分を割いてカントの哲学に言及している。カントの哲学はデカルトから始まった主観というか自我を中心に据えた認識論である。カントはその完成品(ある意味では、一つの完成品の例と言える)である。

 ご案内のように、カントは純粋理性批判で人間の先天的な認識の枠組みを示した。これはいろいろな色合いに受け取られる。それは人間の正しい認識の在り方を示したといえば肯定的な大業績である。ところが人間は対象を(つまり客観世界を)カントの列挙したカテゴリーに従ってしか認識できないと評価すると非常に消極的で悲観的な様相をおびる。人間は物自体を認識することは出来ない。

若い男性はこれを我慢できない。いってみればストリップ小屋で次々と衣装を脱ぎ捨てるが最後の肉襦袢は脱がないストリッパーようなものである。どうしてくれる、金を返せというわけである。これがカント後の課題となった。神学校でヘーゲルのルームメイトだったシェリングは、物自体、物自体とはいわないが、彼岸の存在すなわち神(彼岸)の恩恵的な(きまぐれな)啓示によってちらっと見せてくれるという哲学を作った。

ヘーゲルはこれを批判して、何だ暗闇で黒い牛を見ることを期待するのと同じだと批判した。彼岸と此岸は同じものだ。精神と物質は同じものの別の現象だ。絶対知において人間はすべてを認識できる、という哲学をでっちあげた。『なぜなら概念はもっとも具体的なものである』。その中にはすべてが含まれているからだ、と強弁した。

「理性的」という概念の御利益はその他にもある。それを使うとすべての哲学的アポリアは簡単に霧消する。あらゆるパラドックス(哲学的逆理)は意味をなさなくなる。

 デカルト由来の自我中心というか主観中心思想の物足りなさへの一つの解決策を示したのがヘーゲルといえよう。しかしほかのやりかたもある。ニーチェはどこに行ってもついてくる自我という犬を追い払うために超自我をひねり出したのである。自我を此岸から彼岸まで包括する超自我とした。しかし、超自我の主体は人間であるから、だれでもが超自我をめざせない。そこで選ばれた人間だけに超人となる資格を与えることにした。あとの人類は畜群(家畜の群れ)として超人の奴隷となるのである。

 つまりカント的な制約に対抗するには、
1:神と人間は同じである、すなわちヘーゲル的
前に触れたように神は人間精神をとおして自己実現のプロセスを辿るというカバラ的な思想、したがって彼岸はない。物自体は認識できる。人間が見たままのものが物自体である。

2:神を認めて、その恩恵を受け身で獲得しようとするシェリング的またはキルケゴール的な哲学がある。この姿勢に疑問を抱き、その希望を放棄すると「絶望」という「死に至る病」に罹患する。

3:ニーチェの超人思想

ま、ほかにも方法があるかもしれないが、今までのところ上記のようなものがあるのである。