穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

刑罰と恩寵61:四次元GPS 

2021-05-14 08:02:03 | 小説みたいなもの

 翌日、朝食後昼までは看護婦も医師も来ないだろうと考えると、彼はベッドから立ち上がり病室内で歩行演習を再開した。クローゼットのような収納の前で彼は立ち止まった。このとき彼は初めて自分の洋服や持ち物はどうなっているのだろうかと心配になった。彼はその収納のような引手を開けた。予想通りクローゼットで、彼の着ていた洋服がハンガーに掛かっていた。下には彼の大きなショルダーバッグがおいてある。急いで取り上げるとベッドの横にあるテーブルの上に持ってきてその上に置いた。開けてみた。

 からの買い物袋の中に入れたダイヤモンドのカフスボタンはそのままであった。彼はほっと安堵したようにため息をついた。もっとも彼らは模造ダイヤかガラスで出来たものと思ったのかもしれない。 サイフの中身も無事だった。

 クローゼットのなかに洋服はあったが、下着はなかった。親切にランドリーに回してくれたのかな、と思っていると後ろでドアを開ける音がしたので彼はギクッとして振り向いた。看護婦が入ってきたのである。

「あら、荷物を調べているの、ちゃんとあるでしょう」

「ええ、そのようですね。下着は洗濯に出してあるのですか」

「そうですね」

「いつごろ戻ってきますかな」

「退院するまでには戻ってきますよ」と彼女は患者を安心させるようにほほ笑んだ。

「今日中には出来ていますかね」

「さあ、だけど明日はまだ退院できませんよ」と彼女は医者と同じことを言った。いざと言うときには下着なしで脱出しなければならないかもしれない。下っ腹が冷えないといいがな、とかれは考えた。

「今日は何日ですか」と彼は医者にしたのと同じような質問をした。

「ええと、四日だったかな。そう五月四日ですよ」というと患者の不安そうな顔を見て

「なにか予定があったのですか」

「そうなんですよ、困ったな」

「それじゃ電話で連絡したら」

「そうですね、そうします」と言ったものの彼の携帯では、ここではつながらないだろう。第一明智大五郎に電話して迎えの来るのを延期することなど出来ない。これはどうしても明日は秘密裏に強行脱出しなければならないだろうと彼は考えをめぐらせた。

 看護婦が部屋を出て行くと彼はテーブルの上に置いたショルダーバッグの中から四角い箱を取り出した。これが無いと帰れないのである。ヤレヤレ無事だったかとかれは中型の携帯ラジオくらいの大きさの機器を取り上げると調べた。どうやらいじられはしなかったようだ。これは携帯ラジオのごときものではない。四次元GPSなのである。これが無いと迎えに来るはずのペガサスと決して遭遇出来ないのである。壊れてはいないだろうか、と彼は電源を入れると、『チェック』と書いてあるスライドスイッチをオンにした。しばらくしてポッと青いランプがついた。それ以上慌てて操作するとどんな事態が招来するかわからない。その時が来るまでは触らないことにした。

 彼は再び病室内で歩行練習を繰り返した。

 夜になって彼は念を入れて再びGPSの確認をした。GPSを取り出して不安そうに調べた。実は五月五日に迎えのペガサスが来ることは教えられていたのだが、時間までは聞いていないような気がした。GPSを取り出して、点検して初めて気が付いたのだが、迎馬の時間を指示するアナログのダイヤル盤があることを発見した。とすると日時も変えられるかもしれない。液晶表示には五月五日午後三時になっている。なんだ、それなら退院も伸ばすことが出来るじゃないか、と思った。しかし、帰心矢のごとし、もう三十一世紀はこりごりだ。毎日外出のたびにフンドシを巻かなければならない。やはり予定通り明日帰ろう。

 第一彼は「イマ、ココ」で通用する健康保険証を持っていない。換金した残金で治療費が間に合うかどうかも見当がつかない。いよいよ退院となれば、それやこれやで彼が三十一世紀の人間でないことがばれてしまう。医療費未払いの無宿者で収容されるかもしれない。あるいは貴重種ということで博物館か動物園で展示されて一生を終わるかもしれない。親切に治療してくれた医療スタッフには申し訳ないが、これは黙ってふけるよりしょうがない。

 しかし、待てよ、午後三時と言うのはまずいな。丁度医者の午後の回診がある時間だ。こいつはまずいな、と彼は気をもんだ。昼食は十二時に看護婦が持ってくる。十二時から三時の間は看護婦も医師も来ないだろう。かれは時間だけは直したほうがいい。そうだな、一時半に合わせるておくか。しかし誤動作でGPSが取り返しのつかない暴走をしてしまうのが怖くて彼はしばらく躊躇した。明智から渡された取扱説明書を数度注意して読み返すと彼は時間表示のダイヤルに慎重に触れた。ゆっくり、ゆっくりと時針、長針を回した。