風変わりなタイトルの意味は終盤に村長の言葉として解題される。それは古来からの農耕牧畜村落の伝習的な知恵である。悪い米、野菜などの農作物は芽のうちに刈り取れということだ。また、虚弱な欠点のある家畜は生まれてすぐに殺してしまえ、ということである。聖書にもあったね、悪い麦はすぐに抜き取らないと全体をダメにしてしまうとかいうくだりがあったような記憶がある。ユダヤ人は放浪牧畜民族だった。
この小説でいえば、戦時中、農村に政府から押し付けられた少年感化院の生徒のことである。特にその中で最後まで矯正できなかった「僕」のことである。
アメリカ英語の「ハウス・ブロークン」の表現を思い出させる。しつけ出来ない、されない悪い子である。英語ではもっと上品に「ハウス・トレインド」という。現代のいじめもこの線上にある。いじめられる子供は学級集団になじまない子である。だからいじめっ子は教師と相性がいい。そして教師はモトいじめっ子であることが現代では多い。だからいじめの問題が起こると学校や教育委員会は隠ぺいに奔走する。
日本でも農村ではこの伝統は強い。近代日本では戦争前でも政府でもこういう考え方は建前としては取っていない。だから彼らを感化院に収容する。そうして戦時下米軍の空襲が地方にも及び始めると山岳地帯の部落に疎開させて保護しようとしたのである。
この部落レベルの習俗は現代でもいたるところにある。それは近代的な社会制度、すなわち国とか行政のレベルではなくて、社会末端のアフィニテイ・グループに根強く残っている。すなわち、部落以外では教室、労働組合、管理組合、町内会などである。