長年四海は感情の高揚を経験できなくなっていた。というよりも警戒していたというべきだった。理由は分からない。そのうちに高揚する能力が無くなったようである。感情の高揚というのは警戒しなければならないと個人的な経験から学んだらしい。
唯一感情の扉を開けるのは部屋でドニゼッティのオペラを聴くときだった。それも「狂乱のルチア」か初期のアリアだけである。ほかのオペラはレシタティーボが多く入るのでそこで気分をそがれる。セリフの入る場面は大体伴奏も控えめで平板である。第一ドイツ語やイタリア語のセリフが分からなければイライラするだけである。
といってもそんなに物々しい仕掛けで聴くわけではない。築六十年の日本家屋では音量を上げるわけにはいかない。ピアノをぶっただいてもびくともしない防音装置を施しているわけでもない。隣近所の住民は言うに及ばず同居している家族からも苦情を言われる。音量をあげなければ安物のCDプレイヤーで充分なのである。
しかし、肉欲の高揚はまだ三十代の彼には抑えることができない。感情の高まりは兆しのうちにどこかへ行ってしまう。抑圧されて意識の底か、自我と言う地殻の外へ漏れ出すのか。煙のように消滅してしまうのか。