穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

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2018-07-06 07:34:55 | 妊娠五か月

 時間が来て搭乗手続き開始のアナウンスが流れた。もう一度長い列を作って機内に入り込むと彼の座席は最後部のスターボード・サイドに指定されていた。スチュワーデスのお姉ちゃんに何度も聞いてようやくたどり着くと、その列はすでに埋まっていた。窓際の席には手荷物やらバッグやら上着がうずたかく積まれておかれている。巡回している女性従業員に尋ねると、彼女は彼の搭乗券を確かめて、彼の席はその荷物の積み上げられている席だと教えた。キャビン・アテンダントがその隣に座っているでっぷりと太って額の禿げあがった男に「おそれいりますが、窓際の席はこのかたの席ですので」と話しかけるが相手は知らん顔をしている。こんどは彼女が英語で問いかけるがその男はじろっとこちらを見るが返事をしない。隣に座っていたこれも太った初老の女がまわりの乗客たちとチイチイパッパとさえずりだした。どうも中国人の団体らしい。

  キャビン・アテンダントは思案にくれたように「あいにくこの便は満員でして、空いている席があればご案内できるのですが」と彼に話しかけた。その様子を見て団体の一行はようやく事情が分かったらしく窓際の男になにか話しかけた。彼は窓際の席に積み上げられた上着やバッグを一つ一つ周りや後ろの席の同行客に配り始めた。Tは身を縮めるようにして彼らの前をとおり指定された席に落ち着いた。離陸するまでにまだ時間があるようだ。そのうちに隣の太った男は暑いのか着ているシャツを脱ぎだした。隣に座っていた女は彼の妻らしく夫がシャツを脱ぐのを手伝っている。男は下着姿になった。妙なかび臭い漢方薬のようなにおいが漂ってくる。まあ、岡山までは一時間ぐらいの辛抱だろう、とTはあきらめたように考えた。

  タクシイングを開始した機体は滑走路の端に到着したらしく、ぴたりと静止した。「この機は間もなく離陸いたします。皆様、安全ベルトをいま一度お確かめください」と女性従業員のアナウンスが流れた。やがてエンジンの回転数があがる音が客席の中まで伝わってきた。機体はブルンブルンと軽く二、三度尻を振り、ブレーキをおっぱなされた機体は滑走を始めた。Tは祖父の形見の懐中時計をポケットから取り出してストップウオッチを押した。35秒後Tは浮揚感を感じた。小さな窓からは外の気配は全く分からないが機体が地面を離れる感覚は500人乗りの棺桶に閉じ込められていても分かるらしい。ヤレヤレ、無事に離陸したようだ。これが一分近く浮揚感がなければオーバーランしていたかもしれない、と祖父の言葉を思い出した。

 


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