ここでは西欧語からの翻訳について考える。哲学翻訳書を読むときに躓きの石となるのは其の珍妙な訳語(日本文)であるのは言うを待たない。原文(英独仏など)の哲学書で原著者が採用するのは古代ラテン語経由(スコラ神学などキリスト教の伝統的な神学で採用確立した用語法、古代哲学など)、古代ギリシャ語経由(スコラ神学など伝統的なキリスト教神学で採用されたものや古代哲学など)、西欧土語(ゲルマン語、ケルト語、ロマン語など)に語源のある日常語である。
とくに問題があるのは近代の哲学書である。このころから土語に語源を持つ自国語、(すなわち英独仏、蘭語など)で執筆する著者が多くなり、その日本語への訳語に珍妙なものが多い。これらの言葉を日本語に翻訳する場合にはいくつかの方法がある。
一つは古代漢籍に出典を求めるものか、あるいは漢語による訳者独自の意訳がほとんどである。この場合明治中期までの翻訳者は江戸時代から続く漢文の素養があったから「さまになっていた」がそれ以降は珍妙なものが多い。また、仏教哲学用語を準用する場合もあったようである。
しかし、この方法が一応さまになっていたのはせいぜい20世紀初頭までであった。それ以降はろくに漢籍の素養がないものが漢字をあてるから妙なことになる。つまり具体的に言うと現象学とかハイデガーとかフランスの現代哲学の翻訳書である。なかには訳しかねてフランス語の音をカタカナで表記するものがある。なにをかいわんや、である。