ろうそくの光が木の香の漂う浴室を頼りなげに照らしている。電灯は使えない。何時停電するか分からない。檜作りではないが木の風呂はやはり気分が落ち着いていい。さきほど「東部軍管区発表」とラジオで空襲警報が帝都に発令されたが、毎夜のことで慣れてしまった第九は、家族が怖がって誰も風呂に入らないのを幸いせっかく沸かした湯が冷めないうちにと風呂に入っていたのである。
陶器の風呂桶とは違う。ポンポンという後楽園の陣地から撃つ高射砲の音も眠りを誘う。いい気持になってうとうとしはじめた第九の耳に突然鋭い音が迫ってきた。ヒューンという金属が空気を切り裂くような音がしたとおもうと風呂場の外の壁にぶつかって風呂場が振動した。煙突から煤が彼の頭上に降り注いできた。
風呂場は庭に面している。衝突した物体は庭に落下したらしい。食堂に集まっている家族がばらばらと庭に出てきて叫んでいる。突然姉のギャーという悲鳴が聞こえた。父や母、それに書生が姉のもとに駆け寄ってくる気配がした。「どうした、どうした。大丈夫か」と父の声がする。父も暗闇で何かにけ躓いたらしく「痛ててて」と悲鳴を上げる。「なんだ、これは、おい明かりをもってこい」と書生の園田に命じている。灯火管制で屋内の電灯には皆黒い布でカバーがしてあって、庭は真っ暗だった。
園田が懐中電灯を持ってきて、それで庭に落下したものを照らし出したらしく、「なんだこれは」と父が驚きの声を発した。「これは爆撃機の破片じゃないですか」と母の声。姉はうめいている。「そんなことより、竹子の傷を見なければ」父とはいい、姉を抱えて食堂に戻っていった。
第九は慌てて風呂から出て体を拭くとズボンとシャツを着て食堂に行った。姉は畳の上に寝かされていたが顔色は真っ白だった。脚のどこかの動脈を切断したらしく下半身は血で真っ赤になっていた。父と書生は応急の止血措置をしようとなれない手で必死であった。母はおろおろするばかりであった。「三浦先生に来てもらいましょう」と父に言った。
「それがいい。急いで電話してくれ」
廊下に出た母は電話をかけていたが、帰ってきて「先生はいらっしゃいませんでした。下町はいたるところで火災が発生していてけが人の処置で出ているんですって」
「そうか、そうだろうな。おい、竹子、大丈夫か」と話しかけるが彼女はほとんど意識がなくなっているらしい。どうやら出血だけは止まったらしい。
「どうしてそんな怪我をしたんです。直撃じゃないでしょう」
「うん、暗闇で鋭い金属の破片に躓いたようだ。あれはなにかね。B29が撃墜されて、その破片が落ちてくることがあるらしいが」と父がつぶやいた。
「わたしもそう思いましたが、高射砲の破片の可能性もありますね」と園田が答えた。
「ふーん、そういえば後楽園の砲兵工廠に高射砲陣地があるからな。そうかもしれないな」
「破片は風呂場の煙突にぶつかってから庭に落ちたらしいが、風呂場は大丈夫か」
「中は大丈夫でした。ただ、煙突の煤が土砂降りのように落ちてきましたよ」
「そうか、煙突掃除の人ももう半年も来ていないからな」
「彼もきっと戦地に召集されたのでしょう」と園田が言った。