クニマス(国鱒・学名Oncorhynchus nerka kawamurae)は、サケ目・サケ科に分類される淡水魚の一種。別名キノシリマス、キノスリマス、ウキキノウオ。かつて秋田県の田沢湖に生息しており、1940年に絶滅したと思われていたが2010年に山梨県の西湖で再発見されたとみられている。現存している標本は20体あまり。産卵の終わったものをホッチャレ鱒、死んで湖面に浮き上がったものを浮魚(うきよ)という。
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概要
分布
秋田県田沢湖。山梨県西湖も生息している。
形態
体は全体的に灰色、若しくは黒色で下腹部は淡い。幼魚は9個前後のパーマークを有する。体長は30 - 40cm。皮膚は厚く、粘液が多い。同じベニザケの陸封型であるヒメマスなどに比べ瞳孔、鼻孔が大きく、体表や鰭に黒斑がない。成熟したオスでも「鼻曲がり」にはならない。幽門垂数はサクラマス程度の40 - 60と著しく少ない。しかし鰓耙数(さいはすう)は多い。また、胸、腹、尻鰭が長く、鰭の後縁は黒くなる。
生態
岩に付着した藻類やプランクトンを餌としていたと考えられている。普段は田沢湖の深部に生息し、産卵期が近づくと浅瀬に現れた
分類
1925年に、ジョーダン(ジョルダン)と マクレガー[1] によりジョーダン&ハッブスの論文内で "sp. nov" (新種)として発表されたが、記載文中ではベニザケの陸封型("land-locked derivative of 0. nerka")とされた。しかし、周年産卵すると点などから独立種(その場合の学名は Oncorhynchus kawamurae)とする意見もある。ただし、周年産卵するというのは実際に確認されたものでなく、伝承である。なお原記載におけるタイプ産地の表記は "Lake Toyama in the mountainous western part of Ugo in the norhewestern part of Hondo" となっている。
「絶滅」と再発見
1940年、第二次世界大戦の折に軍需増産をはかり鉱山への電力供給の為の発電所を通して玉川の強酸性水が、田沢湖に大量に流入したため湖水が酸性化し絶滅した。現在ならば環境問題として大きく取り上げられるところであるが、当時は国家を挙げての戦時体制の真っ只中であり、この固有種の存在などが顧みられる事は全く無かった。
しかしそれ以前に人工孵化の実験をするため1930年に本栖湖、西湖に、他にも琵琶湖や詳しい場所は不明だが長野県、山梨県、富山県に受精卵を送ったという記録があったため、田沢湖町観光協会は1995年11月に100万円、1997年4月から翌1998年12月まで500万円の懸賞金を懸けてクニマスを捜したものの発見されることはなかった。
田沢湖での絶滅の原因は強酸性水の流入であるが、サケ科魚類の中でも浮上稚魚期のヒメマスが酸性の水に極めて弱い特性[3]を持っていたことも要因となっている。
再発見
その後標本からDNAによる復活も期待され、分析を行うもホルマリンによりDNA本体が切断されていることが判明し、復活は絶望視されていた。
しかし、2010年になってタレントで、魚類学者のさかなクンが、執筆していたクニマスのイラストの参考のために、西湖などから取り寄せた近縁種の「ヒメマス」を見たところ、明らかにヒメマスと異なる特徴が発見されたため、京都大学の研究チームに持ち込んだところ遺伝子解析などの結果、70年ぶりに生存を確認したと報道された。なお、西湖ではクニマスのことを、地元の漁師は黒いヒメマスという意味で、クロマスとして呼称しているとされている。[4] [5]
名前の由来
クニマス(国鱒)の語源は、江戸時代に田沢湖を訪れた秋田藩主がクニマスを食べ、お国産の鱒ということから国鱒と名付けられた。原記載には "Kunimasu = Local Salmon" と訳されている。
キノシリマス(木の尻鱒)の語源は、辰子伝説エピソードの一つの、木の尻(松明)を田沢湖に投げたところそれがキノシリマスになったという事から名付けられた。
ウキキノウオ(槎魚)は田沢湖の別名、槎湖(うききのみずうみ、さこ)、漢槎湖(かんさこ)から名付けられた。田沢湖に生息するすべての魚についてウキキノウオと呼ぶこともある。
種小名 kawamurae は、記載に用いられた標本をジョーダンに贈った川村多実二・京都帝国大学教授(当時)への献名である。
人間との関係
漁
資源のある高級魚であったため、専業の漁師が居た。クニマス漁は一年中行われ、刳り舟を使用した。漁法は刺し網漁法で、夏は深部に、冬は浅く網を下ろす。ただし少数であるが、雑魚網や一本釣も行われていたようである。1月-3月が最盛期で、漁で上がったクニマスはすぐに死に、徐々に白く変色したという。
味
深所に生息するためか皮が硬いのが特徴であるが、白身で柔らかく非常に美味であった。地元でも祝い事や正月などのときにしか食べることのできない高級魚で、昭和天皇に献上された事もあり、大正時代には米一升と交換するほどの魚であったという。豊漁の年でも冠婚といった特別のとき以外は食べなかったといい、大半は雑魚箱に入れて角館町に売りに出るが、 その角館でも買う家は地主、上級武士、豪商など決まっていた。このため売り子は「軒打ち」と称い、あらかじめ買ってくれそうな家を覚えておいて売り歩いたという。一般が口にするのは妊産婦か病人に限られており、田沢湖町田沢、元田沢湖町役場総務課長の羽川氏は「子供のころよく獲れたものだが、なかなか食べさせてもらえなかった。それでも風邪をひいたりすると、『早く治れ』と母が出してくれた」と当時について語っている。料理する場合は焼魚にする事が多かったようである。現在のヒメマスも美味な高級魚であるが、これと比較しても高品位であったとされている。