2014年8月9日(土)20:43 9日午後0時15分頃、『札幌市中央区の10階建てマンション敷地内の駐車場で、市立中学校の男子生徒(14)が血を流して倒れているのを、通行人の男性が発見、110番した。 男子生徒は搬送先の病院で間もなく死亡が確認された。マンションの屋上から遺書のような書き置きが見つかり、札幌中央署は自殺とみて動機や経緯を調べている。 発表によると、マンション屋上の入り口には高さ約1・1メートルの柵があるが、男子生徒は柵を乗り越えて屋上に侵入し、飛び降りたとみられる。書き置きのほかに遺留品はなかった。 男子生徒が通う中学校の教頭は「警察から詳しい情報が入っておらず、状況を把握できていない」とし、いじめなどトラブルの有無についても「まだ確認できていない」と話した。』
平和な日本で、なぜ゜日本の子供たちは死に急ぐのか。親も学校の先生も、友達も救えない悲しさと情けなさが有ります。戦後69年目の終戦記念日を前に日本では、少子化が問題になっている今日子供の命の貴さが忘れられています。有名精神科医の言ういじめた加害者に死んで自分が見せしめても、本当のリベンジにはなりません。本日は、関西では、西国観音霊場・中山寺の星下り大会式の日です。死んで花見が咲くものかと言う諺も有りますが、いじめで、一つしかない命を無くす価値など有りません。命を賭ける「大義」果たして有りますか。大正15年生まれの亡き母の祥月命日に戦前、戦後を生き抜い来た母のたくましさを思い出します。
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星下り大会式 名前の由来, 星下り大会式 法要の由来, 星下り 卜部左近の物語, 星下り
と後白河法皇, このウィンドウを閉じます. ○名前の由来.
平安の頃から「星祭り」の表現で続けられ「星下り」という名称になったのは、慶長元和の頃から。それは、三十三所
●名前の由来
平安の頃から「星祭り」の表現で続けられ「星下り」という名称になったのは、慶長元和の頃から。それは、三十三所の観音様が来迎されるお姿が、あたかも星が降るようであるからです。
別名「ここのかび」。 |
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●法要の由来
古来より8月9日に中山寺にお参りすると、西国三十三所観音霊場のすべてにお詣りしたのと同じ功徳があるといわれています。
またこの日は、「四万六千日(しまんろくせんにち)」ともいわれています。「四万六千日」とは、この1日で46,000日お詣りしたのと同じ功徳が得ら
れる日という意味です。数の由来はいろいろありますが、一説には、1升の米粒の数が四万六千粒あり、「1升」は「一生」と同じ発音だから四万六千は一生を
意味するといいます。
●卜部左近
慶長
元和の頃、播州三木に卜部左近という修行者がいました。幼い時は母と共に諸国を漂浪していましたが、しばらくして、故郷の三木に帰ってきて暮らしていまし
た。生まれつき利発な人物で、儒学を好んで、ついには六経に通じ、塾を開いて門弟を教えるようになりました。その頃に、隣村の金剛寺に澄傳法印に就いて、
十一面観音の真言を授けられました。(金剛寺は三木にある真言宗の寺院。孝徳天皇の当時、法道選任が開基したと言い伝う。弘法大師も参拝したりして栄えて
いたが、別所長治氏の乱で伽藍を焼失)。
卜部左近
は、毎日数万遍もこの真言を唱え、信心はより強固となって、遂には一家揃って三十三所の霊場を巡礼することにしました。中山寺の観音様は巡礼の根本であ
り、特に例年7月10日は三十三所の観音様がすべて中山寺に集まる日と言い伝えられています。三十三所巡礼を復興した花山法王の頃、7月9日から7日間大
供養を行い、10日五夜の刻に弁光僧正の前に観音様がお姿をあらわされたとの言い伝えがあります。卜部左近は元和2年7月9日に中山寺に参りました。
卜
部左近は一心に『私の前にも観音様がお姿をあらわしてくださいますように』と念じながら、真言を唱えていました。夜もいつしか更けていき、卜部左近も疲れ
が出てきたのか、ウトウトしはじめました。辺りは風もなく静かで、大気は爽やかでありました。するとどこからか、微かな音、雅楽を奏でたような音が聞こえ
てきました。卜部左近がふと空を見上げると、無量の菩薩を前後左右に擁して三十三所の観音様がおられました。その美しさはたとえようがない美しさでした。
やがて中山寺の観音様が金鑰をもって極楽浄土につづく門扉を開きました。諸尊はその中に入っていき、卜部左近もその後に続き、中に入ることができました。
中は現世の百倍はあろうかという明るさでした。
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卜部左近は大喜びで尋ねてみました。『極楽浄土は十万億土を隔てたはるか遠くにあるときいております。
今いる浄土は何処なのでしょうか』観音様は『ここは、お前の清浄は心の中にある浄土であって、お前が作りだした浄土である。心が仏を作り出せばそれは形と
なってあらわれ、すべての仏たちを摂取する。十万億土は遠い所ではない』と答えました。
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 【 卜部左近の墓 】 |
大喜びの卜部左近は自分の妻子にも拝ませてあげようと急いで門扉を出たところ、その門扉は閉じてしまい、再び入ることはできませんでした。卜部左近は、
中山寺の僧侶にお願いし、草庵をかまえて妻子とともに日夜観音真言を唱えていました。その後3年を経て、妻子も観音様のお姿を拝見することが出来ました。
これより、観音様が中山寺に集まるという信仰は益々盛んになり、今に続いています。今は旧暦7月9日を、8月9日であると定めています。梵天には仏様が宿るとされていますので、梵天泰幣が行われています。参拝者が梵天の切れ端を欲しがるのはその為です。 |
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●星下りと後白河法皇
世の中には観音の功徳にあずかろうとしても種々な事情で霊場巡拝のかなわぬ大勢の人々がいました。そこで根本道場である中山寺の本尊十一面観世音の左右
に、脇仏として十一面観世音二体を合せ祀り、御本尊と共に御三体で三十三面、西国観音を総摂して法華経に説く観音の三十三権化身を表象し、中山寺に参詣す
ることによって、真の三十三所巡拝と同じ功徳をえられるという大悲の方便が後白河法皇(1127-1192)により仰せだされました。法皇はあつく観音を
信仰され、荒廃した三十三所霊場を再興されておられます。なお脇仏御二体は最近の調査で寛元2年(1244)の銘記が発見され、執権北条経時(つねと
き)、蒙古襲来で世情がやかましくなる30年ほど前の作と判明しました。
さて、7月9日夜、三十三所観音が星に駕って中山寺に参集するといわれる「中山寺星下り」は、花山法皇巡礼復興のおんとき、弁光僧正に観音示現があった
ことから継承されている霊話で、これは「極楽中心中山寺」の思想、すなわち徳道上人の霊験から発しているものです。観音総衆が中山寺に参集される時あたか
も星の とんでくるように見えるので、新暦8月9日を「星下り大会式」俗に9日(ここのかび)と呼んで、毎年盛大な大法会が営まれ、丁度、夏から秋に移る時節(節分)に当年の豊穣と安産とを祈り、この日参詣すると四万六千日分参詣したと同じ功徳を得られるといわれます。 |