ホーム山内康一ブログ 『 蟷螂の斧 』政治の動きと分析
専門知の死:無知礼賛と民主主義【書評】
2019年 09月25日
クリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます)
専門知と民主主義の関係は、政治学の重要なテーマです。世界で広がるポピュリズムや反知性主義の動きを見ると、きわめて現代的なテーマです。トム・ニコルズ著「専門知は、もういらないのか:無知礼賛と民主主義」という本を読んで考えさせられました。
原書のタイトルは「The Death of Expertise」なので、直訳すると「専門知の死」という感じです。原書の副題には「The Campaign against Established Knowledge and Why it Matters」とあり、それも直訳だと「確立された知識への攻撃となぜそれが問題か」という感じでしょうか。*英語の「campaign」には「軍事行動」とか「作戦」という意味もあります。
著者のトム・ニコルズは、ロシアや核戦略の専門家で、米国海軍大学校の教授です。大学で教えていることもあり、米国の大学教育の現状もよくわかっています。トランプ大統領に象徴される米国の反知性主義の現状を嘆いています。
サブタイトルの「無知礼賛」の背景には、インターネットの普及と大学教育の大衆化とサービス産業化があると著者は言います。インターネットの世界では、その道何十年の研究者や実務者の専門的提言も、素人の短絡的コメントも、平等に扱われる傾向があります。むしろ素人の歯切れのよい意見の方が、正しく見えることもあります。
専門家(特に謙虚で優秀な専門家)は、あまり断定的な意見をいいません。さまざまな事例や例外を知っているために、留保付きの慎重な意見をいう傾向があります。他方、専門外の素人(特に謙虚さに欠ける素人)は、よく知らないテーマに関しても、きっぱりと断定的な意見をいう傾向があります。
専門家が複雑な事象について複雑で正確な説明をするよりも、短絡的で歯切れのよい印象論の方がインパクトがあり、第三者から見ると説得力を持つことがあります。日本でも「はい、論破」みたいな論法がもてはやされる傾向があります。日本にも自らの無知さ加減を知らないのに歯切れのよい「論客」がたくさんいます。あるいは無知だから歯切れがよいのかもしれません。
最近人気のユーチューバーやワイドショーのコメンテーターは、自分の専門外の安全保障政策や外交政策などについても歯切れよく断定的に発言し、それがウケている風潮があります。ネットの世界では、その道の権威の専門家も素人も「平等化」されてしまいます。
そしてネットでは、まったくの専門外の素人でも自由に発信できます。本を出版するのも、新聞や雑誌に投稿するのも、かなりハードルが高いです。プロの編集者が内容をチェックし、校正者が原稿を再チェックし、一定の水準以上の文章しか出版されません。ところがネットではノーチェックで自由に発信できます。
専門家と素人では知識量や経験値が圧倒的に違うのに、平等に扱われるのは逆に不平等な気がしますが、そういう感覚は時代遅れなのかもしれません。ネットの世界で人気者になろうとしたら、知的な謙虚さは邪魔にしかならないのかもしれません。
イタリアでは人気コメディアンが五つ星運動という政党をつくり、国政で大きな影響力を発揮しています。五つ星運動は、専門知を軽視したポピュリズム的政策と、インターネットを使った直接民主主義的手法を駆使して、一気に躍進しました。五つ星運動に関する論文を読んだことがありますが、インターネットを使った直接民主主義的な手法は有権者に「ウケる」一方で、欠点も多くて危険だと感じました。
ウクライナでもコメディアンの大統領が誕生して話題になりました。政権を打倒することまではできるかもしれませんが、政権を運営できるのかあやしいものです。アメリカで俳優が大統領になったことはありましたが、大統領を支える共和党系のブレーンやシンクタンクなどが充実していたし、カリフォルニア州知事の経験があったので、ウクライナのコメディアン大統領とは比較になりません。政権を運営する能力(統治能力)は、暗黙知みたいなところも多く、専門家や官僚機構のサポートなしに政権を運営するのは難しいと思います。
また、著者は米国の大学教育の「サービス産業化」が反知性主義の背景にあると指摘します。日本も似たような状況かもしれません。かつての大学教育はエリートを養成する意味合いが強く、大学教授や知識への尊敬が見られました。しかし、大学教育の大衆化が進むと、「とりあえず大学に行く」学生が増え、大学も乱立し、入学者の獲得合戦が激しくなります。大学は学生を「お客様」と見なし、スポーツ施設や学生寮を充実し、授業内容や評価を甘くする傾向が強まりました。学生も教授に敬意を払うのではなく、教授をサービスの提供者と見なす傾向が強まります。
教授をサービス提供者だと見なす学生は、教授と自分が対等だと勘違いします。先生への敬意のないところに、知への尊敬の念は生まれません。大学の先生の言うことよりも、グーグルで調べた情報の方が価値があると思う学生が増えれば、大学教育の意義も薄れ、知的な発達は進みません。体系的に知識を身につけるのに大学以上に適した場所はあまりありません。その大学教育の質が変化していると著者は言います。
著者によると、専門知を軽視する人たちは、批判的思考は身についていない一方で、自分が信じることしか受け入れず、根拠のない自信を持つ傾向があると言います。カエサルの言葉に「人は見たいと思う現実しか見ない」とあり、ローマ時代からそういう傾向はあったのでしょう。しかし、適切な学問的トレーニングを受けていない人ほど、その傾向は強まるようです。
著者はロシアの専門家ですが、旧ソ連政治の研究からスタートし、優れた研究者の指導を受けながら、大量のロシア語の新聞や資料を精査して分析し、長い時間をかけて専門家になりました。そういう専門家と、ちょっと本を読んだ程度の生半可な素人との区別がなされないのが、現代の米国社会の問題だと著者は言います。
たとえば、日本には韓国の専門家はたくさんいます。韓国政治の専門家、韓国の防衛政策の専門家、日韓関係史の専門家など、いろんな韓国の専門家がいます。彼らは大学や大学院で韓国について研究し、韓国語を学び、大量の韓国語文献を読んだり、インタビューしたりして、専門家になります。
しかし、テレビのワイドショーを見ていると、長年研究してきた専門家の意見よりも、国際弁護士とか落語家とか「コメンテーター」の意見の方がよく流れる印象を受けます。そして、素人の短絡的な意見は、歯切れがよくわかりやすいので、世論に影響を与えやすいのだと思います。
専門家の複雑な説明を理解するには一定の知識(リテラシー)が必要です。しかし、素人の意見は誰でも理解できます。専門的でかつ健全な意見より、短絡的でわかりやすく過激な素人の意見の方が、テレビやネットの世界ではウケます。
米国では専門家への信頼が低下し、トランプ大統領に見られるように専門家を蔑視し、無知であることを隠そうともしない政治家が人気を博するようになりました。専門家の助言なしには、複雑な公共政策の立案や実施は難しいはずです。
トランプ大統領の外交を見ていると、不動産業界の交渉術があれば、世界各国の首脳と渡り合い米国の国益を増進できると勘違いしているように見受けられます。トランプ大統領になって、長年かけて築かれた米国への信頼や尊敬が低下し、米国のソフトパワーは大幅に低下しています。中国やロシアがアグレッシブになっているのも、トランプ外交で米国の影響力が低下している証拠です。トランプ大統領に決定的に欠けているのは、専門家や専門知への信頼です。外交に限らず、トランプ政権の機能不全は誰の目にも明らかです。
著者は次のように述べます。
専門家と政府は、とくに民主主義国家においては互いに依存し合う関係だ。人々の幸福を確保するための技術的または経済的発展には労働分担が必要であり、そのために職業(プロフェッション)が生みだされる。プロ意識(プロフェッショナリズム)が専門家に、全力でクライアントに仕え、おのれの境界を守り、他の人々にも境界を守るように求めさせる。そういったことすべてが、専門家の最大のクライアント、つまり社会全体に対するサービスの一環なのだ。
(中略)民主主義社会では、専門家の国民全体へのサービスは社会契約の一部だ。市民はさまざまな問題の決定権を、選挙で選ばれた代表者と彼らに助言する専門家に委任し、専門家は、知識を身につけて合理的判断ができる市民に対して、専門家の仕事を誠実に受けとめるように求める。
専門家と市民の関係は、民主主義国家のほとんどすべての関係と同様に、信頼という土台の上に築かれている。信頼が崩壊すれば、専門家と一般の人々の対立が生じる。そして民主主義自体が死のスパイラルに突入し、たちまち衆愚政治か、エリート支配によるテクノクラシーに陥りかねない。いずれも権威主義的な結末であり、現在のアメリカにはその両方の影が忍びよっている。
専門家と市民間の関係崩壊は民主主義そのものの機能不全だというのはそういう理由だ。あらゆる問題の土台に、政治および一般的なことがらに関するアメリカ国民のリテラシー(基礎能力)の低さがある。その土壌にあらゆる機能不全が根を張って繁茂している。2016年の大統領選はそのもっとも最近の表出例でしかない。
無知礼賛の典型がトランプ大統領であり、民主主義の危機を招いています。ポピュリズム政治家は、専門家(=エリート)を批判し、専門知を無視する傾向が世界共通に見られます。
安倍政権の大学政策や科学技術政策にもそういう傾向が見られます。基礎科学を軽視し、すぐ実用化できる応用技術や軍事技術を重視する傾向。あるいは、国立大学の理工系を重視し、人文科学系学部を削減してリベラルアーツ的な学問を軽視する傾向。研究に競争を持ち込み、研究者の非正規化を進める傾向。専門家を尊重せず、政治が大学教育や科学技術研究を主導しようという姿勢は危ういと思います。
日本でも「専門知の死」が少しずつ進行しているのかもしれません。ワイドショー政治、そして短期的(刹那的)な世論調査政治が、長期の国益より目先の内閣支持率を狙う政治を招いています。「専門知」を殺さず、専門家と政治家や市民との建設的で健全なコミュニケーションが求められます。
ところで著者も「専門家が万能だ」とは言ってません。専門家が間違うことについて1章をさいて説明しています。ちなみに私は何の専門家を自称できるだろうかと考えてみると、いちおう十年以上衆議院議員をやっているから「政治の専門家」くらいは言ってもバチは当たらないと思いたいと思います。それ以外の分野について発言する時は気をつけなくては、、、、、
*参考文献:トム・ニコルズ、2019年『専門知は、もういらないのか』みすず書房
専門知は、もういらないのか:みすず書房
『専門知は、もういらないのか』の書誌情報:電子書籍もあります20世紀初頭まで、政治や知的活動への参加は一部の特権階級に限られていたが、後の社会変化で門戸は大きく開かれた。それは人びとのリテラシーを高め、新たな啓蒙の時代を招来するはずだった。ところが今、これほ ...
www.msz.co.jp】
2019年 09月25日
クリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます)
専門知と民主主義の関係は、政治学の重要なテーマです。世界で広がるポピュリズムや反知性主義の動きを見ると、きわめて現代的なテーマです。トム・ニコルズ著「専門知は、もういらないのか:無知礼賛と民主主義」という本を読んで考えさせられました。
原書のタイトルは「The Death of Expertise」なので、直訳すると「専門知の死」という感じです。原書の副題には「The Campaign against Established Knowledge and Why it Matters」とあり、それも直訳だと「確立された知識への攻撃となぜそれが問題か」という感じでしょうか。*英語の「campaign」には「軍事行動」とか「作戦」という意味もあります。
著者のトム・ニコルズは、ロシアや核戦略の専門家で、米国海軍大学校の教授です。大学で教えていることもあり、米国の大学教育の現状もよくわかっています。トランプ大統領に象徴される米国の反知性主義の現状を嘆いています。
サブタイトルの「無知礼賛」の背景には、インターネットの普及と大学教育の大衆化とサービス産業化があると著者は言います。インターネットの世界では、その道何十年の研究者や実務者の専門的提言も、素人の短絡的コメントも、平等に扱われる傾向があります。むしろ素人の歯切れのよい意見の方が、正しく見えることもあります。
専門家(特に謙虚で優秀な専門家)は、あまり断定的な意見をいいません。さまざまな事例や例外を知っているために、留保付きの慎重な意見をいう傾向があります。他方、専門外の素人(特に謙虚さに欠ける素人)は、よく知らないテーマに関しても、きっぱりと断定的な意見をいう傾向があります。
専門家が複雑な事象について複雑で正確な説明をするよりも、短絡的で歯切れのよい印象論の方がインパクトがあり、第三者から見ると説得力を持つことがあります。日本でも「はい、論破」みたいな論法がもてはやされる傾向があります。日本にも自らの無知さ加減を知らないのに歯切れのよい「論客」がたくさんいます。あるいは無知だから歯切れがよいのかもしれません。
最近人気のユーチューバーやワイドショーのコメンテーターは、自分の専門外の安全保障政策や外交政策などについても歯切れよく断定的に発言し、それがウケている風潮があります。ネットの世界では、その道の権威の専門家も素人も「平等化」されてしまいます。
そしてネットでは、まったくの専門外の素人でも自由に発信できます。本を出版するのも、新聞や雑誌に投稿するのも、かなりハードルが高いです。プロの編集者が内容をチェックし、校正者が原稿を再チェックし、一定の水準以上の文章しか出版されません。ところがネットではノーチェックで自由に発信できます。
専門家と素人では知識量や経験値が圧倒的に違うのに、平等に扱われるのは逆に不平等な気がしますが、そういう感覚は時代遅れなのかもしれません。ネットの世界で人気者になろうとしたら、知的な謙虚さは邪魔にしかならないのかもしれません。
イタリアでは人気コメディアンが五つ星運動という政党をつくり、国政で大きな影響力を発揮しています。五つ星運動は、専門知を軽視したポピュリズム的政策と、インターネットを使った直接民主主義的手法を駆使して、一気に躍進しました。五つ星運動に関する論文を読んだことがありますが、インターネットを使った直接民主主義的な手法は有権者に「ウケる」一方で、欠点も多くて危険だと感じました。
ウクライナでもコメディアンの大統領が誕生して話題になりました。政権を打倒することまではできるかもしれませんが、政権を運営できるのかあやしいものです。アメリカで俳優が大統領になったことはありましたが、大統領を支える共和党系のブレーンやシンクタンクなどが充実していたし、カリフォルニア州知事の経験があったので、ウクライナのコメディアン大統領とは比較になりません。政権を運営する能力(統治能力)は、暗黙知みたいなところも多く、専門家や官僚機構のサポートなしに政権を運営するのは難しいと思います。
また、著者は米国の大学教育の「サービス産業化」が反知性主義の背景にあると指摘します。日本も似たような状況かもしれません。かつての大学教育はエリートを養成する意味合いが強く、大学教授や知識への尊敬が見られました。しかし、大学教育の大衆化が進むと、「とりあえず大学に行く」学生が増え、大学も乱立し、入学者の獲得合戦が激しくなります。大学は学生を「お客様」と見なし、スポーツ施設や学生寮を充実し、授業内容や評価を甘くする傾向が強まりました。学生も教授に敬意を払うのではなく、教授をサービスの提供者と見なす傾向が強まります。
教授をサービス提供者だと見なす学生は、教授と自分が対等だと勘違いします。先生への敬意のないところに、知への尊敬の念は生まれません。大学の先生の言うことよりも、グーグルで調べた情報の方が価値があると思う学生が増えれば、大学教育の意義も薄れ、知的な発達は進みません。体系的に知識を身につけるのに大学以上に適した場所はあまりありません。その大学教育の質が変化していると著者は言います。
著者によると、専門知を軽視する人たちは、批判的思考は身についていない一方で、自分が信じることしか受け入れず、根拠のない自信を持つ傾向があると言います。カエサルの言葉に「人は見たいと思う現実しか見ない」とあり、ローマ時代からそういう傾向はあったのでしょう。しかし、適切な学問的トレーニングを受けていない人ほど、その傾向は強まるようです。
著者はロシアの専門家ですが、旧ソ連政治の研究からスタートし、優れた研究者の指導を受けながら、大量のロシア語の新聞や資料を精査して分析し、長い時間をかけて専門家になりました。そういう専門家と、ちょっと本を読んだ程度の生半可な素人との区別がなされないのが、現代の米国社会の問題だと著者は言います。
たとえば、日本には韓国の専門家はたくさんいます。韓国政治の専門家、韓国の防衛政策の専門家、日韓関係史の専門家など、いろんな韓国の専門家がいます。彼らは大学や大学院で韓国について研究し、韓国語を学び、大量の韓国語文献を読んだり、インタビューしたりして、専門家になります。
しかし、テレビのワイドショーを見ていると、長年研究してきた専門家の意見よりも、国際弁護士とか落語家とか「コメンテーター」の意見の方がよく流れる印象を受けます。そして、素人の短絡的な意見は、歯切れがよくわかりやすいので、世論に影響を与えやすいのだと思います。
専門家の複雑な説明を理解するには一定の知識(リテラシー)が必要です。しかし、素人の意見は誰でも理解できます。専門的でかつ健全な意見より、短絡的でわかりやすく過激な素人の意見の方が、テレビやネットの世界ではウケます。
米国では専門家への信頼が低下し、トランプ大統領に見られるように専門家を蔑視し、無知であることを隠そうともしない政治家が人気を博するようになりました。専門家の助言なしには、複雑な公共政策の立案や実施は難しいはずです。
トランプ大統領の外交を見ていると、不動産業界の交渉術があれば、世界各国の首脳と渡り合い米国の国益を増進できると勘違いしているように見受けられます。トランプ大統領になって、長年かけて築かれた米国への信頼や尊敬が低下し、米国のソフトパワーは大幅に低下しています。中国やロシアがアグレッシブになっているのも、トランプ外交で米国の影響力が低下している証拠です。トランプ大統領に決定的に欠けているのは、専門家や専門知への信頼です。外交に限らず、トランプ政権の機能不全は誰の目にも明らかです。
著者は次のように述べます。
専門家と政府は、とくに民主主義国家においては互いに依存し合う関係だ。人々の幸福を確保するための技術的または経済的発展には労働分担が必要であり、そのために職業(プロフェッション)が生みだされる。プロ意識(プロフェッショナリズム)が専門家に、全力でクライアントに仕え、おのれの境界を守り、他の人々にも境界を守るように求めさせる。そういったことすべてが、専門家の最大のクライアント、つまり社会全体に対するサービスの一環なのだ。
(中略)民主主義社会では、専門家の国民全体へのサービスは社会契約の一部だ。市民はさまざまな問題の決定権を、選挙で選ばれた代表者と彼らに助言する専門家に委任し、専門家は、知識を身につけて合理的判断ができる市民に対して、専門家の仕事を誠実に受けとめるように求める。
専門家と市民の関係は、民主主義国家のほとんどすべての関係と同様に、信頼という土台の上に築かれている。信頼が崩壊すれば、専門家と一般の人々の対立が生じる。そして民主主義自体が死のスパイラルに突入し、たちまち衆愚政治か、エリート支配によるテクノクラシーに陥りかねない。いずれも権威主義的な結末であり、現在のアメリカにはその両方の影が忍びよっている。
専門家と市民間の関係崩壊は民主主義そのものの機能不全だというのはそういう理由だ。あらゆる問題の土台に、政治および一般的なことがらに関するアメリカ国民のリテラシー(基礎能力)の低さがある。その土壌にあらゆる機能不全が根を張って繁茂している。2016年の大統領選はそのもっとも最近の表出例でしかない。
無知礼賛の典型がトランプ大統領であり、民主主義の危機を招いています。ポピュリズム政治家は、専門家(=エリート)を批判し、専門知を無視する傾向が世界共通に見られます。
安倍政権の大学政策や科学技術政策にもそういう傾向が見られます。基礎科学を軽視し、すぐ実用化できる応用技術や軍事技術を重視する傾向。あるいは、国立大学の理工系を重視し、人文科学系学部を削減してリベラルアーツ的な学問を軽視する傾向。研究に競争を持ち込み、研究者の非正規化を進める傾向。専門家を尊重せず、政治が大学教育や科学技術研究を主導しようという姿勢は危ういと思います。
日本でも「専門知の死」が少しずつ進行しているのかもしれません。ワイドショー政治、そして短期的(刹那的)な世論調査政治が、長期の国益より目先の内閣支持率を狙う政治を招いています。「専門知」を殺さず、専門家と政治家や市民との建設的で健全なコミュニケーションが求められます。
ところで著者も「専門家が万能だ」とは言ってません。専門家が間違うことについて1章をさいて説明しています。ちなみに私は何の専門家を自称できるだろうかと考えてみると、いちおう十年以上衆議院議員をやっているから「政治の専門家」くらいは言ってもバチは当たらないと思いたいと思います。それ以外の分野について発言する時は気をつけなくては、、、、、
*参考文献:トム・ニコルズ、2019年『専門知は、もういらないのか』みすず書房
専門知は、もういらないのか:みすず書房
『専門知は、もういらないのか』の書誌情報:電子書籍もあります20世紀初頭まで、政治や知的活動への参加は一部の特権階級に限られていたが、後の社会変化で門戸は大きく開かれた。それは人びとのリテラシーを高め、新たな啓蒙の時代を招来するはずだった。ところが今、これほ ...
www.msz.co.jp