■「猿の惑星:創世記(ジェネシス)/Rise Of The Planet Of The Apes」(2011年・アメリカ)
監督=ルパート・ワイアット
主演=ジェームズ・フランコ フリーダ・ピント ジョン・リスゴウ アンディ・サーキス
全5作製作された「猿の惑星」(ティム・バートン版は除く)。第1作を観た衝撃はジェリー・ゴールドスミスの音楽とともに忘れられない。あの有名なラストシーン。あれ程絶望的なエンディングの映画はかつてなかった。「続・猿の惑星」はその続編としてさらに悲劇的な物語を観る者に突きつけた。地下に逃れた人間だちが核爆弾を崇めている姿には戦慄を覚えた。20世紀の地球に未来の猿たちが降り立つ「新・猿の惑星」。ここから3部作であの未来が何故地球に起こったのかが描かれる。70年代のシリアスなSF映画の中でも「猿の惑星」が与えた衝撃は他の映画とはまったく違っていた。本作はあの「猿の惑星」の未来がいかにして起こったのかを、改めて描いた物語。僕はしょせんは焼き直しにすぎない・・・と勝手に思っていた。ところが映画館を出るとき、久しぶりに何かすごいものを観た・・・という満足感と疲労感の混じり合った気持ちにさせてくれる秀作だった。
アルツハイマーの治療薬を作ろうとしていた製薬会社に勤める主人公。彼はチンパンジーによる実験で知能の発達が見られたことで、臨床試験を会社に願い出る。しかし薬を投与したチンパンジーが暴れ出すトラブルが発生し、プロジェクトは失敗してしまう。主人公が自宅に連れ帰った小猿には薬の効果が遺伝していた。次々に驚くべき発達を遂げる小猿に、彼と彼の父親はシーザーと名付ける。しかし、高度な知能を持った大人の猿にとって、人間と暮らすことはとても苛酷な現実でもあった。主人公の父親を助けようとしたことから隣人を傷つけてしまい、シーザーは類人猿を収容する施設に送り込まれてしまう。シーザーは次第に人間に対してあきらめと、言いようのない怒りを覚え始める・・・。
僕がこの映画に満足できた理由は2つある。ひとつは、これまでの「猿の惑星」とは違って、”猿側の視点”がきちんと描かれていること。いやむしろそれがメインの物語だと言ってもいいだろう。シーザーが暮らしていた部屋の円い窓から見える風景。主人公やその家族と暮らす生活には幸福があった。しかし一歩家の外に出るとシーザーには暮らしにくい厳しさがある。次第に意思をもち自我に目覚めるシーザーは「自分はペットなのか?」と主人公に尋ねる。収容された施設で他のチンパンジーやオランウータンたちと初めて接するシーザー。だが彼が人間への復讐心から、次第に周囲の猿たちを仲間にしていく様子に、観ている僕らはどんどん引き込まれていく。旧「猿の惑星」シリーズでは、猿は黒人を代表とするマイノリティをイメージしていると言われてきた。本作も虐げられた者が戦いを挑む、いわば革命の物語。シーザー率いる猿側が行動を起こす理由に共感してしまう。驚くべきことに観ている僕らは、ゴールデンゲートブリッジでの戦いの場面で猿たちの活躍にドキドキしてしまう。日頃自分の国が負ける戦争映画を嫌うわがままな観客たちが、自分たち人間が敗北する物語を観て涙を流す。これは旧シリーズでは言葉少なだった猿側の論理がきちんと表現されているからだ。そして、それはSFX技術の発達があったからこそ成り立った。つまり今だからこそ描けた物語なのだ。
僕が満足したもうひとつの理由は、台詞に頼らない演出や暗示的な表現が巧いことだ。ハリウッド大作はわかりやすさが命。だが猿が事実上の主人公であるこの映画で、説明くさい台詞は当然だが人間にしか語らせることができない。映画は映像で語るもの、と故淀川長治センセイはおっしゃったが、この映画はその演出が冴えわたっている。収容施設の壁に、家にあった円い窓の図形を描いてすり寄るシーザー。しかし人間に絶望してからは、その絵を消してしまう。猿たちを仲間に引きいれるエピソードに至っては当然台詞は使えない。ゴリラを従えて、ボス猿を服従させる場面の物言わぬ緊迫感。そして何よりも人間にとってはウィルスであった新薬の影響が世界に広がっていくエンドクレジット。黒い背景の世界地図上に航空路線を描いているだけのに、僕らは戦慄を覚えてしまう。そこには何の説明もない、ただニューヨークに向かうパイロットがひとつ咳をするだけ。ウィルスで人類が死滅する世界を描いた小松左京の「復活の日」を思い出させるようなエンディングではないか。見事だ。久しぶりに天国の淀川センセイにみせたい映画だと思えた。きっと「怖いですね、怖いですね」と言ってくれるに違いない。恋人役は「スラムドッグ&ミリオネア」のフリーダ・ピント、主人公の父親は名優ジョン・リスゴウ。シーザーを演じたアンディ・サーキスは、リメイク版「キングコング」でコングを演じた人だとか。
こんなにいい演出と語るべきストーリーがある映画なのに、相変わらず日本の映画宣伝は下手くそだ。何が「泣ける」だよ。泣かせるSF映画を作り手は見せたかったんじゃない。チラシなどの宣材に書かれたコメントにしても、何が「すごい」何が「泣ける」何が「渋い」のかなんにも語られない。そりゃ実験動物とされた猿はかわいそうだけど、そこで泣かせる映画じゃないはず。科学と人間の行き過ぎが招く悲劇と、人間と猿との相容れない断絶の物語こそが、感動して"泣ける"ポイントな訳で、そこを抜きして"泣ける"を連呼する宣伝は間違っている。別に動物愛護が主題の映画ではないだろう?。