■「劇場版魔法少女まどか☆マギカ 前編始まりの物語」(2012年・日本)
■「劇場版魔法少女まどか☆マギカ 後編永遠の物語」(2012年・日本)
総監督=新房昭之
声の出演=悠木碧 斎藤千和 水橋かおり 加藤英美里
深夜アニメで放送され、萌えな絵柄とは裏腹に強烈にダークな展開が繰り広げられる「魔法少女まどか☆マギカ」。放送当時まったく見ていなかったのだが、巷での評判を聞き、”ここでオレが見ないのはやっぱりおかしいだろ”、と変な好奇心と自負(そしてアニメ好き職場の面々の影響)から劇場版にいざチャレンジ。なっ、なんだ、これは。萌え系キャラクターたちから連想するイメージとはかけ離れたダークな物語。ストーリーの壮絶さとスケールのでかさ。テレビシリーズの劇場版というと、ファン重視の予備知識なしには観られないものばかりだが、これは違う。ひとつの映画としてきちんと成立している。衝撃を受けた。目を見張る映像表現の斬新さ。気味悪いんだけど、きゃわゆい。今どきの表現ならば、”グロかわ”とでも言うのでせうかw。
妹がいたから、いわゆる魔女っ子ものは幼い頃なーんとなくテレビで見ていた気がする。大人になって娘と東映動画の女の子向けアニメを見ることもあった。一方で80年代の魔女っ子アニメブームよく知らないのだが。この手の作品(戦うヒロインものを含めてもいいだろう)には、ふたつの型があるように思える。ひとつは生まれながらにして魔女っ子であるもの。飛ぶことしかできないキキ(「魔女の宅急便」)という例外はあるが、サリーちゃんや魔女っ子メグちゃんは最初から”フツーでない”能力を持っていて、それをいかによい事に使えるのかを学びながら人間的に成長していくお話。そしてもうひとつは、ある日偶然の出会いから主人公は不思議な力を授かり、”フツーとは違う”女の子になるというものだ。「美少女戦士セーラームーン」や「プリキュア」シリーズ、「おじゃ魔女どれみ」もそうした流れ。どちらの型でも、フツーでないが故の悩みや苦労(人しれず敵と戦うこともそのひとつ)をしょい込むことになる。だが、それを乗り越えて主人公が人間的に成長するのがどちらの型でも物語の主軸で感動を生むところになっている。
「まどか☆マギカ」は、そんな魔女っ子ものの型を踏みながらも、タブーを次々と打ち破る。例えばヒロインに力を授ける存在を、ヒロインはともかく視聴者も疑ったことはない。ミップルとメップル(「プリキュア」)や黒猫ルナ(「セーラームーン」)を僕らは「侵略者かも?」とか疑ったことがあっただろうか。そこを疑ったらヒロインたちの活躍は根本が揺らいでしまう。怪獣映画で言えばガメラを憎む子供が出てくるようなものだ(「ガメラ3」)。「まどか☆マギカ」に登場するキュウベエは、ヒロインたちに「僕と契約して魔法少女になってよ」と勧誘する。見返りはどんな願い事も叶えてあげるということ。その引き替えに、現実世界を襲う邪悪なものと人知れず戦わねばならない。ところがその裏には秘密があった。キュウベエの本当の狙いは・・・次第に謎が解けていき、本当の目的をキュウベエがまどかに明かす場面の衝撃。キュウベエの赤い眼のアップが映し出され、淡々と語られる真実。それまで感じてこなかった冷たさが一気にスクリーンに満ちる。まるで「2001年宇宙の旅」でコンピューターHALが殺意を持った場面のようだ。
一人で戦っていくことにつらさや涙を見せるヒロインもタブー破りのひとつ。戦うヒロインは恋以外ではメソメソしていられないのが従来のイメージなのだが。そして、宇宙的広がりにまで達する壮大なスケールのクライマックス。手塚治虫の「火の鳥未来編」が頭をよぎる。ヒロインが選択する願い事は、想像を超えたスケールの自己犠牲。また、ほむらが繰り返してきた行動もまた然り。僕ら世代(のアニメ好き)は、誰かのために自分が犠牲になることの尊さを「宇宙戦艦ヤマト」で学んだ。コミュニケーションが希薄になり、自分ばかりになりがちな現代に、この描写はどう映るのだろう。
でも、この常識を超越したこの物語がどこか普遍的とも思える感動を与えてくれるのは、人物描写の細やかさがあるから。引っ込み思案な主人公まどかは、自分から行動できる積極性は持ち合わせていなかったが、その分だけ周りの人たちの喜びや痛みを感じて、一緒に喜んだり悩んだりすることができた。途中、さやかに決断できないことを責められる心に刺さるような痛い場面がある。さやかの言い分はもっともなのだが、一緒に苦しんでいた分だけ、まどかは決して傍観者であった訳ではないだろう。人には言えないけれど、自分の中でウジウジしている経験、誰もがあるのではないか。その蓄積された気持ちがラストにつながっていく。映画の最後、まどかの選択はスケールこそ大きいけれど究極の母性的な行動。それはまどかがずっと自分に何ができるのか問い続けてきたからこそできた決断だろう。僕ら世代になると、学生時代に目立たなかったクラスメートが、親や社会人として別の立場になって、あの頃では想像できないような活躍をしたり、役割をこなしている姿を見聞きして驚かされることがよくある。立場が人を変えることはあるけれど、それも人それぞれ。人はいきなり変われる訳じゃない。それには日々、年月積み重ねた思いや経験があってこそ。その子もきっとそうだったと思うのだ。
ダメっ子ヒロインが勇気をくれる感動こそが、この物語の底にある。そう、結局魔女っ子ものが持つべき”成長物語の感動”。「まどか☆マギカ」は魔女っ子ものの型を打ち崩したけれど、守るべきところできちんと型を守っているのだ。型やぶりになりたきゃ、まずは型にはまってみることだ。新房昭之監督、それをやってのけている。