Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

ジョーカー

2019-10-05 | 映画(さ行)


◼️「ジョーカー/Joker」(2019年・アメリカ)

監督=トッド・フィリップス
主演=ホアキン・フェニックス ロバート・デ・ニーロ サジ・ビーツ フランセス・コンロイ

軽々しい気持ちで観る映画ではない。どんな物語だろうと受け止める覚悟でスクリーンに向かうことが必要だ。観終わってどよーんとした気持ちでいる。物語に引き込まれたし、この映画が近年ない凄さをもっていることは十分わかるし、説得力もある。でもとにかく救いがないし、観るのが辛い。なんで金払って映画館でこんな辛い思いをしなきゃいけないのか、と何度も思った。でもDVD鑑賞ならきっと投げ出してる。

監督がマーチン・スコセッシの「キング・オブ・コメディ」を意識したと発言したらしい。あれは笑いと狂気が表裏一体になって、笑いながら薄ら寒い怖さを感じる映画だった。エンドロールを迎えた後の気持ちは、敢えて言えば「時計じかけのオレンジ」の時の感覚に近い。どちらもカリスマ的な悪役の物語である。多くの暴動参加者にジョーカーが讃えられるラストは、己の狂気を解き放った結果として、誰からも認められなかった青年が拍手に包まれた瞬間。徒党を組んで悪事に手を染めるアレックスの姿とも重なる。

またミュージカルナンバーが印象的に使われていることも共通点と言えるだろう。「時計じかけのオレンジ」では「雨に唄えば」を歌いながら暴行する。あのシーンに感じた強い嫌悪感。さらにエンドクレジットで再びジーン・ケリーの歌で聴かせるから、あれ程好きだった「雨に唄えば」がしばらく聴けなくなった。「ジョーカー」では、地下鉄で起こる殺人事件で殺される男の一人が、ピエロ姿の主人公アーサーをからかって、ミュージカル「A Little Night Music」のナンバーSend In The Clowns(道化をよこして)を歌う。歌が下手だったから殺した、という台詞もあった上でエンドクレジットではフランク・シナトラの(上手な)歌で聴かせる。ウン十年前に「時計じかけのオレンジ」で感じた嫌悪感と疲労感は確かに似ている。

でも二つの映画は決定的に違う。映画「時計じかけのオレンジ」のラストも確かに救いはないけど、常識を吹っ飛ばすようなどこか痛快な感じすらあった。だから二度と観ねえ!と思いながら映画館を出たけれど、どうしても惹かれずにいられなかった。「ジョーカー」のクライマックス、アーサーが尊敬するコメディアンの前で主張する世間への疑問と考えは確かに胸に響くところはある。そこに至るまでの彼の生い立ちというプロセスがあってこその言葉だからだ。

だがそこに散りばめられたエピソードはあまりにも辛い。しかも今の日本、いや世界で起こっている様々なの出来事に重なってくる。無理解による差別、偏見、笑いのネタが欲しいだけのメディア。福祉の打ち切りで主人公が追い詰められるところなんて、増税と福祉のあり方が騒がれる今の日本がチラつくし、ネグレクトが描かれる場面も昨今の痛ましい事件がどうしても頭をよぎる。みんながピエロの面でデモに集まる場面も、マスクを着用して抗議を続ける香港のデモという現実が重なって見える。ジョーカーの成り立ちには僕らの現実が重なるのだ。

「ダークナイト」でヒース・レジャーのジョーカーは人間不信を煽って僕らの心を揺るがした。ホアキン・フェニックスのジョーカーの言葉は、スクリーンのこっち側で起こってる現実の不安や出来事と、それらに僕らは怒りや煮え切らない気持ちに訴えかけて揺さぶりをかけてくる。決して犯罪者賛美の映画ではないし、彼の言葉に頷く訳にはいかない。しかし、ジョーカー誕生までのこの物語を観たら、そうなるに至ったことを納得させられてしまう。そんな危うさを持っている映画だ。ジョーカーの理屈を認めたくないのに。決して認めてはいけないのに。「ダークナイト」はまさに葛藤のドラマだったが、「ジョーカー」で葛藤させられるのは鑑賞者である僕らなのだ

チャップリンの「モダンタイムス」を観る場面が出てくる。むかーし、「モダンタイムス」を若い子に見せた時に、「社会にうまく適応できない人を笑いのネタにしている。不快だ。」という感想をもらったことがある。「ジョーカー」での使われ方は、上流階級の人々がせせら笑っててそんな目線を感じさせる場面だった。もちろん、ジョーカーの微笑みと、「モダンタイムス」の名曲SMILEをかけてるんだろうけど。

コメント (2)
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