ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

脚本の仕掛け、大歓迎!

2015-07-01 10:12:47 | 演劇

 どうしたって、脚本が気になる、演出に目がいく。もちろん、役者の演技を通してその芝居を見ているわけだから、役者の良し悪し、出来不出来は大きいんだけど、まっ、ずば抜けて気に入ったとか、目を背けたくなるとか、特別な場合は別として、出演者に見ほれるってことは、あまりない。まずは台本、次に演出、さらには装置、お後は照明、まっ、こんなところだ。やっぱり、書く立場、演出する側、創る身だからだ、自分が。観客としちゃ、タチ悪いよな。

 グループる・ぱる公演『蜜柑とユウウツ』。幕開けから唸らされた。あらら、随分暗い明かりだこと、人がいるっていうのに!と不審に思っていたら、別の二人が入ってきて、窓を開けたら、さーっと明るい陽ざしが差し込んだ。その後、3人のやりとりで、最初の男はどうやら実在しない幽霊のごときもんだってわかる仕掛け。うーん、憎い!幽霊はこの男だけじゃなく、主人公の茨木のり子も、「気がかり」と名付けられる幽霊、さらに、同年代の二人ののり子、紀子と典子という幽霊まで登場する。

 舞台と時と場所は、茨木のり子が亡くなって数日?後の自宅2階。遺作の原稿を探しに来た編集者とのり子の甥っ子、それと弔問に訪れた女友達葉子は生きているが、その周囲を自在行き来する3人ののり子と家守の保は霊界の存在、まず、この仕掛けがいいなぁ。突然の死で成仏できないのり子は、どうやら、この世にやり残したことがあるようで、他ののり子はその気がかりを見いだすお手伝いに出没しているという設定だ。その気がかりが何なのか?遺作原稿は存在するのか?二つの謎を追い求め形で劇は進行する。観客の興味をぐいっと引きつける仕掛けだ。

 気がかりを思い出すために、のり子の生い立ちを振り返っていく、なるほど、これで伝記ものとしての構成がクリアされるわけだ。憎いなぁ!台本の巧みさは、幾つか切り取られた過去の表現方法にも見られた。対立を基軸に据えるというのは、作劇術の常道だが、詩作を始めるにあたっては、二人ののり子が、詩の世界へのデビューでは、谷川俊太郎が、政治に目覚める時ののり子には夫が、そして、芸術性に行き詰まった時期は葉子がそれぞれ鋭く対峙して思想と言葉を深く突き詰めている。こんな風に書けたら、と何度ため息をついたことだろう。

 演出はマキノノゾミ、期待の通り、随所にはっとする描き方を見せてくれた。一緒に見ていた菜の花座メンバーも驚いたのが、舞台となっている2階から1階に降りる装置の作りとそれを昇降する役者たちの演技だ。実際の床面は1尺7寸程度の高さしかないわけだが、階段を下っていくと、本当に下の階に降りていったように見えていた。詩の朗読で、3人ののり子が客席を向いて語るシーンとか、瞬時に母親になって見合いを進めるシーンとか、今度の菜の花座公演『お遍路颪』でも試みるつもりなので、やってるやってる、とほくそ笑んでしまった。照明の扱いも斬新かつ繊細で心打つ明かりが多々あった。

 と、良いことずくめ、文句なし、感動の舞台だったかというと、それはちょっと違う。後半からラストにかけて、集中力が途切れてしまった。いや、こっちの話し。疲れてたからかなぁ、でも、たしかに、物足りないしなぁ。見終わって、ばらし手伝う時も、帰りの車の中でも、ずっと考えていた。で、翌日、目が覚めて、わかったんだ。

 謎解きの答えに魅力がなかったってことなんだ。劇空間を引っ張ってきた、のり子の気がかり、それは、大切に取ってあった夫の喉仏の遺骨と一緒に葬ってねらうことと、それまでののり子が書かなかった女としての詩作表現=遺作だった。

 人によるだろうけど、遺骨とかにとんと興味のない僕には、あっそ、としか言いようのないあっけない幕切れだった。夫婦の愛ってのもあまりそそられないしね。読み上げられた遺作の詩も、茨木のり子をほとんど読んだことない身としては、死後、期するものあって発表したというほどのインパクトはなかった。最後の最後、家守の保が実は、庭に植わった蜜柑の木だったというのは、悪くないと思ったけど、ぎりぎり種明かしに引っ張り込まれて、これが結末、裏切られたとまでは言わないが、感動の幕切れにはほど遠かったってことなんだ。

 でも、そんな拗ねた見方するのは、僕くらいのものだろうし、女性には、心惹かれるエンディングだったと思う。る・ぱる、以前東京で見て魅了されたグループ、わざわざ川西に来てくれてありがとう。作者の長田さん、演出のマキノさん、参考にさせてもらいます。

 

 

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