いじめは集団エゴが造りだす?平成25年12月9日
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”ほんとうにむかつくわ”
”許せない!”
腹立たしい思いを、人はしたことがあるだろう。
もし、自分が透明人間と想像すると、
誰かを 疎ましく思う理由が
なんだか、わかるような気がする。
たぶん、それは その人から受けた
行為によって”ムカつく”ように見えるが、
実際は、自分自身の、見たくない側面を
見てしまうからなんだと思う。
言い換えれば、自分が その相手と似ているから
その人のある部分が 敏感に感じ取れると
いうことなのだろうと思う。
鏡を身近に置いておけば
自分が目に入るように
その人を通して 自分のパンドラの箱の
嫌な部分が引き出されるような気持ちに
なるのかもしれない。
何故 むかつくの?~と誰かにきかれて、
あの人の、ケチなところ、
お金にきたない、
貪欲、
権力欲、
支配欲が強い、
ころころ変わりやすい
といった相手の性質や
あの人の風貌 、外見が気に入らない
何となく一緒にいると、イライラするとか
何かに巻き込まれてしまいそう
話しているとわけもなく、重たくなる
など根拠のあいまいな理由もある。
ここで覚者は述べる:
”何にしても、その腹立つところ、気になるところ、
イライラさせる部分、として強くあなたが反応する
相手のそれは、実は、あなた自身のエゴの形だ。
その資質を 自分のそれと、
無意識に、同一化(アイデンティファイ)させて
いるから気になって仕方ないということだ。
だから、それは自分の中にあるものが
エゴを通して、相手に映っているだけのことだ。”
と教える。
或いは 印度で聞いたたとえを使えば
”目糞が鼻くそを笑う” という具合だろうか・・・
自分の事を棚にあげて、文句を言う。
こうしたことは人間関係だけではない。
自分の周りで起こる事象や、目に見えずに飛び交う
さまざまな波動(オーラ)にも
当てはまる。
特に宗教や信仰に関して言えば、
自分のエゴを完全に同一化させると、
それ以外のものを受け入れられなくなるらしい。
自分が信じている教えや解釈のみが真実で、
それ以外は正しくないというする観方がそれだ。
こうした一方的に正しいと主張する
人達の ’自分たち’意識を、
集団的エゴ意識と呼ぶ。
この集団的エゴ意識は、雪だるま式に
大きくなっていく。
転がるうちに、多くの周りのエゴを引き込んで
ついに、その意識に反対する、他者の存在を
赦さなくなるまでに膨張すると、爆弾のように、
破壊的になる。
たとえば、虐殺や搾取、残虐な行為や暴力、
ひいては、組織の利益とからんで、争いとなり
他国を巻き込めば、戦争まで引き起こすだろう。
初めは些細 な 小我を正当化する意識が
肥大化してパワーを持ち
他者への怒りになって炸裂する。
卑近な例でいえば、学校で問題になっている
いじめ もこうしたところから始まっていくのでは
ないだろうか?
誰かが ”あいつは 気に入らない”と”レッテル”
を貼れば、同調している仲間を巻き込んで
集団的エゴ意識ができる。
その意識にかかわりたくない、自分を守ろうとする
人達は、無言で見て見ぬ振りをするだろう。
”モノ言えば唇寒し” で、一言それに異見すれば
自分がそのターゲットになるかもしれないという
危惧を持つからだ。
視点を変えれば、いじめの対象になっている
その人こそ、実は、いじめている本人なのかも
しれない。
自分の中の小さなエゴ、
許せない資質に似たもの
を相手の中に無意識に感じて
精神的に肉体的に、相手をいたぶる。
以前ブログでも触れたように、そこには
幼少時代の親とのコントロールドラマの幻影が
潜んでいる場合もあるだろう。
傍観者型、尋問型、攻撃型などの例をとって
書かせていただいたが、親に攻撃され続け
いつの間にか、自分が弱者を攻撃する方に
向く場合もあるかもしれない。
いずれにしても、それらの正体は ”小我のエゴ”だ。
そのタイプのエゴを満足させるには、
”自分の正当化”
”自己の優越化”
でしか成り立たない。
どうしたら、こうしたいじめをなくしていけるの
だろう?
弱者や許せないと思う人を 攻撃することで、
正当性や 優越感を欲する人は、ほんとうは、
幸福の青い鳥を探しているのだと思う。
幸福の青い鳥、メーテルリングの童話だが、
主人公、チルチルミチル兄弟がそれを探しに、
いろいろな国を放浪する。
そして最後に見つけた所は、自分の所だった
という寓話だ。
つまり、本質の自分を見出せば、
何も外の世界に青い鳥
を探しに行く必要がないということだ。
幸福になるための、癒す力も 愛も、優しさも、
智慧もすべて自分の中にあることがわかるからだ。
”私の” ”私は” とこの言葉を使うほど 個人的な
小我が、自分を主張している。
”私たちの”、”私たち” は 集団エゴになりやすい。
”私たちの権利と正義” と言って、どれだけの
破壊的行為が正当化されてきただろうか?
弾圧や拷問が当たり前であった時代があったのだ。
国家、人種、民族、宗教、イデオロギー、すべて
こうした集団レベルの価値観は、それから何か
利益を還元したいという 集団的エゴと結び
ついて、破壊的行為すら正当化している例は
多くみられるようだ
あいつ、むかつく~と言う前に、自分の心を覗く。
自分の意識の中に、自分を正当化させ 自分の
ほうが正義だと想わせたい何かがある・・・
それは 自分自身の心のエゴ意識ではないだろうか?
”あいつ、口ばかりだからな”~という前に
自分は”有言実行”なのだろうか?と内面に問う。
”あの人~なのよね” とレッテルを貼ろうとする前に
自分の心の引き出しを開けて自分にその資質が
ないかチェックしてみる。
今までに、”口だけ”の行為を してきて自分自身
を忘れていないだろうか?
嫌な面を認めたくないとしまいこんでいた過去は
ないか?
その嫌な面が 自分に潜んでいるのを知っているから、
それを他者の中に目ざとく見つけられたのでは
ないだろうか?
筆者自身は 他者を批判しそうなとき、そう反省する。
では、どうしたらよいのか?~
何かを責めたり、何かと同一化させたりして、
ざわついている心を ありのままに見つめる事~
で ひとまず感情に流されないようにすること。
覚者は言う。
”エゴをありのままに人間の心の集団的な
機能不全として認識すること”
そうすれば、誰かのアイデンティティーを
自分のそれと同一化した巻き込まれる前に
ストップがかかる。
エゴを受け入れることで、あえてエゴに反応
することもない。
エゴ意識自体が、”本当の自分”の反応では
ないと、観察眼の役目を持つ もう一つの
自意識(アートマ意識)がささやく。
五感の感覚が受けた刺激によってもたらされる
”不快だ”、”いらだつ”、”気になる”
という”感情”も、間合いをおくことで、
ストレートに 受け止めることもない。
相手を”非難する”ことも減るだろう。
自分の中にその種があるからこそ
批判が生まれると気が付けば
”目くそが鼻くそを笑う”と、内省することで、
相手の非難にかまっていられなくなる。
”誰が悪い? ”誰に文句を言うの?” ”誰が張本人?”
などという、詮索も少なくなるだろう。
身の回りの問題はおおかたが、その周りにいる
すべての人のエゴにからんで起きた問題だし、
皆のエゴ(無関心)によって、たまたま”誰かが”
浮上したに過ぎない。
エゴは反応によって、肥え太るという言葉がある。
相手のエゴのペースに乗れば、いつの間にか自分
のエゴが翻弄させられている。
自分のエゴが翻弄すれば、身近な人にしわ寄せが
および、エゴは拡大していく。
エゴは ほとんどの人間関係に潜んでいるだろう。
その関係で、何かいらだつことがあっても、不快に
なっても、それに反応しない限り、
自分自身の安寧と 真の自分、アートマの平安の
中に自分を静かに見出すことができる。
その平和な波動が 先方に伝われば、いつの間
にか事は肥大化することもなく、収まっていだろう。
”人のうわさも75日” とはよく言ったものだ。
噂に代表される集団エゴ意識は 所詮アブクのような
ものだろう。
小我のエゴ自体の塊が 集団エゴを造る。
小我自体が 時とともに消滅するアブクのような
有って消える存在だから、
時がたてば 集団エゴも自然消滅するだろう。
いじめの問題 も”いじめる側”の立場からみたとき
本来の根っこは こうした自分の心の向き合い方に
端を発しているような気がしてならない。
いじめられる被害者の立場、弱者の立場
にたってみれば まわりの人達、ひいては社会が、
少なくても、それぞれが、間接的に関与している
のだということはを、忘れてはならないと思う。
世の中の事象、大きな事も小さなことも、結局は
そこに住む人間の心の持ちようが大きく影響を
与えていることは否めないと思う。
私たちは、互いに繋がりあっている存在だと
すれば・・・