因縁の無い世界~エデンの園 平成25年12月27日
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誰でもご存知のアダムとイヴのお話し。
旧約聖書によると、人類の祖先にあたるアダムとイヴは
エデンの楽園で過ごしていたが、狡猾な知恵を持った
蛇の誘惑で、禁断の実をイヴが食べてしまう。
その判断の実は、自分たちが裸であることを、恥じらわせ、
そして 神の怒りに触れて、楽園を追放された。
この聖書の有名な話を 真理を含んだ寓話とみなす覚者
は多い。日本で、光明一元論を掲げる、谷口雅春師は、
この寓話の真意を次のように解釈している:
”自己の実相が神であり、仏であり、自己のうちに無限
の生かす力があり、仏の無限の救う力があると悟らずに、
どこか、よそに自分を生かすものがあると思って 薬
を頼ったり、親の財産に頼ったり、何かほかのモノを
持ってきて補わないと、完全に生きられない。
自分は足りないものだと思う。これがアダムが神の前
に出るときに、裸のままでは不完全だ、何か足りない、
恥ずかしいと思ってわざわざイチジクの葉で体を
覆って出たという寓話の意味であります。”
アダムは外からの自分の醜さを隠そうとする。
同時に、自分の完全な内面をも 隠してしまった。
そこから、アダムの子孫は、エデンの楽園、つまり、
不幸も病もない楽園から、罪と病の意識が織りなす、
不完全な現象世界に住むことになったという。
自分の内に本来備わっている、完全な資質(光)を
包んでしまう。覆(おお)われたことで、暗闇が広がり、
光りの無いところに不完全さ、不幸や病、悲しみや
苦しみがあるように、錯覚する。
後世、聖書の神学的解釈が、その錯覚を強める。
教会では、”人間は、楽園から追放された。
神の怒りをかった存在”と 教えられ、人間は原罪を
持ち、生まれながらに罪深い存在であるという定説が
確立した。
キリスト教文化を背景とする西洋世界では、それは、
常識的共通認識になった。
私たち罪深い人間は、神に救いを求めなければ地獄に
行くのだ~と、教会から離れる事への恐れも植えつけ
られた。
実際には、 地獄は人間の意識の中以外に存在しない~
と古今東西の覚者は伝えている。
地獄とか、罪深いという、一種の強迫概念は、宗教組織
が多くの信者を得るための、方便として使われてきた
とする観方も 一方にはある。
さて、仏教でも同様に (無明縁起説)(*1) を
お釈迦様はある壱時期 衆生に、説いている。
この考え方によれば、私たちは”無明”から生まれ、すべて
の存在物ど同様 ”無明” に還る儚い存在だと教えられる。
さらに 因縁(いんねん)と 業(ごう)によって縛られ、
因縁の世界にいる限りは何度も転生する運命であると説く。
この法話の中には、なかなか”因縁を超越する”という意識
までに自分が高められるところまで行かない要素があった
ようだ。
しかし、後世の御経に見られるように、人の仏性への開眼、
解脱のための積極的姿勢が説かれるようになる。
そのあたりを谷口師は以下のように述べている:
”因縁を超越する道を説くのでなければ本当の救いには
ならないのであります。しかし、有り難いことに’法華経’
や’涅槃経(ねはんぎょう)’では釈迦がちゃんと因縁を
超越する道を説いてくれていられます。
法華経 涅槃経を説かれたときには、自分は因縁を超越
して百千万億阿僧祇劫前(ひゃくせんまんおくあそうぎ
こうぜん)から存在する、久遠の昔から生き通しの存在
であることを説法されているのであります。
’涅槃経’の中には、’解脱の中に因なし、因なきをもって
解脱となす’ということが書いてありますが、まことに
その通りであって、因がなければ縁も果もありようが無い。
それで因を超越してこそ、初めて本当の救いに到達するの
であります。”
つまり、”解脱するということ”は、因となる、原因があって、
縁(触媒となる機会)があり、結果が出るという,その
サイクルから飛び出すことだという。
”因縁を超越する”ということは 解脱するということであり、
病も不幸も、因があって結果として現れているのだから本来の
人間の実相に戻り、因縁のない世界に行けば、抑圧された
状態から解放されるという意味でもある。
お釈迦様は "自分は因縁を超越して百千万億阿僧祇劫前
(ひゃくせんまんおくあそうぎこうぜん)から存在する、
久遠の昔から生き通しの存在であることを明言された。
法華経や涅槃経には人間の本質が久遠の昔から行き通しの
生命であるということがはっきりと説かれているという。
もし、罪もなく、永遠行き通しの生命が私たちの本質だと
するのなら、私たちは、どのようにして、アダムの楽園に
戻ることができるのか?
無明を超えた、因縁を超越した生命に復帰できるのか?
覚者は語る:
物質的な自分を飾る、さまざまな形容を取り去るうちに、
楽園にいたときの、”素の本来の自分”を見出すだろう~と。
どうすれば、因縁を断ち切れるのか?
”自分とはだれか?” と、問い続ける姿勢によって。
因縁に左右されない”変わらない本質の自分”を 私たちは
心のどこかで多かれ少なかれ知っている。
実は、大概の人は、皆 心の奥底でそう思っているものだ。
私たちの本質は、表面的な他者との関わり合いの中では、
おいそれと簡単に、見せられないものなのだ。
今、できることはただ一つ・・
本当の智慧と愛に満ちている自分を想いだすこと。
”無明の砕波(さいは)”という言葉がある。これは、本来の
明るい光を取り戻すこと。その結果、あらゆる迷いや妄想、
その影として現れる不完全な姿も 打ち壊されるという
こと。
本来の自分、を想いだすこと。
なぜなら、本来の自分は光そのものであるから・・・
無明は、光が無い所を言うのなら、本来の自分の光を
照らせば、無明は自然と消える。
*1)
無明縁起説には以下の12の因縁が関係し合っている
①(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) -
過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
明るくないこと。迷いの中にいること。
②行(ぎょう、巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra) -
志向作用。物事がそのようになる力=業
③識(しき、巴: viññāna, 梵: vijñāna) -
識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
④名色(みょうしき、nāma-rūpa) -
物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形とその名前
⑤六処(ろくし無明ょ、巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana) -
六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
⑥触(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) -
六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
外界との接触。
⑦受(じゅ、vedanā) - 感受作用。六処、
触による感受。
⑧愛(あい、巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā) - 渇愛。
⑨取(しゅ、upādāna) - 執着。
⑩有(う、bhava) - 存在。生存。
⑪生(しょう、jāti) - 生まれること。
⑫老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死。
参考文献
”生命の実相” 第21巻 昭和44年 日本教文社