自由を獲得する時の自分 2014・4・9
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筆者は大師(覚者)から
“人は本質的に自由などない。”
と教わった。
皆、自由を求めているが 自由とは何か?
ほとんど一般的な場合、
それは単なる諸感覚の解放と欲望の充足の
ための歯止めを外すことを意味しているに
過ぎない。
ほんとうの自由?
それは
欲望からも感覚からも解放され、執着が無に
なり 本当の自分自身を自覚したとき。
自分を縛るものが何もなくなるとき。
そういう自分になったとき。
その自分とは?
“本来のアートマ”に回帰したときであり
大我意識に人が目覚めたとき、自分の中で
統合が行われたときだ”
と師は教えてくれた。
アートマに復帰したその時
病・貧困、不幸・不運も、戦争・不調和の
満ちた現象世界に 居ながらにして
自分の周囲には、調和と愛が自ずから取り巻く
だろうと。
さて、
モーナ女史も、筆者が教わった大師の言葉を
そのまま彷彿とさせるような事を詩に託している。
“ 自由!?
何からの自由なの?
期待や評価、
そんな傷だらけの痛くて苦しい記憶から
自由になる。
そこに命が現れる。
期待や評価なんて全部 幻影。
無限に広がるこの宇宙すべての鏡に
こびりついてしまった
フジツボのような存在だ。
あなたは 今でも、いつだって、完璧。
完璧と感じられないのは、
自由を見失っていたから。
自由とは、愛そのもの。
自由である時、愛に満たされている。
今まで自分や他人に抱いてきた評価や期待を
手放そう。
今まで‘自分’だと勘違いしてきた殻を
手放そう。
すると、本当の自分を取り戻し
宇宙全体と一つになれる。“
さらに 詩は続く:
“自由になりたい
日々のストレスから解放されたい。
自由になる?
それは、簡単なこと。
まずは自由になることを選ぶこと。
どうやって?
‘社会’というあなたの記憶が造りだした
価値観’を手放すこと。
‘世間’という言葉に
べったりとしがみついてきた執着を
手放せるか?
財産や所有物、への執着から
自由になること“
としたうえで、自由を選ぶことの選択肢
を具体的に述べている。
“自分以外の存在に
尊厳をもってかかわり合おう。
干渉せず、自由を与えよう。
他人に自然と抱いてきた期待を手放そう。
我が子を、かけがえのない誰かを、
あなたは自分の執着から自由にさせる
覚悟があるか?“
さらに、
“自分の思うとおりにコントロールしたいという
その強い欲求を手放す決意がついているのか?“
と 誰でも多かれ少なかれもっている“他者への期待”と
“他者をコントロールしたい” という心持の放棄を促す。
この二つの心持を持っていないと言える
人はどのくらいいるのだろうか?
他者とは 血の繋がっていない人だけを指すの
ではない。
家族の中、組織の中、人と人との交わり、社会で
相手に期待をしないということを実行するのは
案外至難の業だと筆者は思う。
無意識に、期待をかけているから、それが満たされ
ないと、不満になったり怒りになったりする。
この二つの資質を人が手放したとき、
怒ることはなく、不満もなく、責めることもなく、
すべて何事も、自分自身の中に責任があると
万事の結果を受け止めることができるのかも
しれない。
この二つの人の弱い習性で起きた人間ドラマは
コントロール劇と呼ばれる。
上司と部下の関係だけでなく、夫婦間、親子間、友人関係、
自分の優越的なエゴ意識や自尊心、
自分が正しいとする基準や価値を相手に
当てはめて考えると、微妙なコントロール劇が
演じられことになる。
そういう人間関係ドラマの中で、
女史はさらに、深く突っ込む。
“あなたは何を手放すの?
評価、判断、執着、期待?
エゴ、意思、知性?“
最後に上げる’知性’は 人の小賢しい知恵を
さすのだろう。
あるいは、どんなに学識があっても
自然の中にある”智慧”や宇宙の営みの秩序を
計る”智慧”に比べれば
些細なものであるのだろう。
“ストレスから自由になる?
ストレスはどこにあるの?
それはあなたの心にあるのだよ。
あなたはほんとうに自由になりたいの?
そうなら、もう、自由を外に求めるのは
やめよう。
今この瞬間、
何よりも先に解放してあげなくてはいけないもの
それは
あなたの心、
内なる世界に置くものは
解放か束縛?
自由か不自由?
どちらかしかない。
あなたの心次第。“
そして、解放を選んだ時、自由を選んだ人
その人にこう助言する。
“それなら、
ただ、一つ一つの記憶を手放していこう。
うずもれていた傷、
恐れを今、手放していこう。“
自由になったとき、 “わたし” [本来の自分~大我~大いなる愛)
と人間は ”ひとつになる” とモーナ女史はいう。
参考書: 叡智のしずく SITH・ホ・オポノポノ アジア事務局 2012年