黒魔術をかけた本人と出会った!? 2014・4・13
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この記事が発表される頃、たぶん、無事に日本に着いて、留守中溜まっている諸事の後始末に負わ
れていることだろう。
今はまだ、デリー。間もなくデリーを離れようとしている。
ええかっこしい という言葉がある。こうして、自分の私的事実を書いていると、ドロドロした部
分を隠して、読者の皆様に抵抗なく受け入れられる事実と言葉を選んでいる自分を発見する。
デリーでの人間関係について記しているが、いつもスムースに展開していたわけではない。
人間臭い部分、それも、陰湿な陰険な出来事もあったし、いまだに付き合いのある家族をして、警
察が絡んだ事件に巻き込まれたこともあったのだ。 だが、時がたつと、すべて清浄化された川の
流れのように、何でもなくなっているのが不思議だ。
大袈裟な表現かもしれないが、筆者を迎え入れてくれた、インド大地、大空に感謝、古い家に感
謝。 今回は、8年間、ベランダの屋根を、天井の亀裂を、扉の不具合を、熱風にさらされていた
んだ壁を 内外から塗り直して、”お疲れ様”という心で修繕することで、ねぎらうことにした。
新しい壁の一区画は 筆者が頼んでもいないのに、ラジンダーさんの芸術的手法によって、日本の
狩野派の琳派風屏風(びょうぶ)にも似た、金色の刷毛でざっとブラッシュした特別仕様の模様が
描かれていた。塗り終わると、こちらの心の壁も、塗りなおされたかのように、気分が一心した。
心の一新というには、理由がある。
今日のタイトルの黒魔術の終焉という言葉がそれを顕わしているかもしれない。 この話の発端と
なった人がいる。”その人”に 須田は黒魔術をかけられたと主張する会社関係者がいる。突然、も
う忘れかけた頃、”その人”は私の眼前に姿を思いがけないところであらわした。今回の旅の最後の
あいさつ回りのある場所で昨日、遭遇したのだ。
順をおって、お話しをすすめさせていただきたい。今回の旅は目的があってないようなもの・・
インドに招かれ、必要な人に会い、するべき責務を果たしてきたような気持ちだ。必要な人達?
そう、まず、息子と二人だけの生活を始めたGK1地区の隣人パールさんご一家、その際の感慨
は、すでの拙ブログでデリー到着直後の記事に、ご紹介している。
ミセス・パールと 息子夫妻と今回しみじみ、語り合えた。夫を、あるいは、父親を失った悲しみ
から癒えない家族に聖地ヒマラヤの麓の瞑想場にお誘いした。
しかし、お誘いしたものの、今回は、筆者自身がそこへ行く時間が見いだせなかった。
次に訪問したのは、筆者の古い知人に当たる、軍人さんのご一家、カプール大将の御宅だ。
20年前にデリーに、最初の家となる一軒家に居を構えた際、インフラが整っておらず、しば
しば、停電するすること、そして、水をタンクにくみ上げる事ができず、深刻な水不足に
陥った。その時の隣人で夏季の水の供給が途絶えたとき、ご自宅の地下のタンクから直接、
ホースを付けて拙宅のタンクに水を入れてくださった、ある意味、命の恩人でもある。
このご夫妻のことも、以前、インドのベジタリアンについての記事で、カプール氏のたくま
しい番犬とともに、ご紹介したことがあるのでご記憶の読者もおられるかもしれない。
奥様のヴィミさんは、ベランダから筆者の姿をみて”まあ!”といって、駈け下りてきた。
20年の歳月が造る溝はそこにはなかった。壁面から滝のような水が流れる室内噴水を備えた
優雅な廣い居間でアフタヌーンティーをいただいた。
突然お邪魔するのは日本ではご法度だが、こちらでは、客人は神様~というインド古来の言
い伝えがあり、昔の友人知人には、おしなべて快く門戸をひらき、心からの歓待をしてくだ
さる習慣がまだ生きている。
筆者がデリーを訪れると、必ずお会いするのが、研究生活を送っていた、10年余にわたり、
インドでの保証人になってくださっていたシャハニ氏だ。
この方は、筆者を”ファミリーの一員”と今でも認めてくださる数少ない知人の一人だ。
ファミリーといえば、前生で 筆者が自分の娘と姉妹だったと確信している方がいる。
仕事は持たず、巡礼の旅にもっぱら回る日々。アニタの父君だ。父君の義理の父親、つまり
奥様の父上(すでに90歳以上)は 未だにお元気で、自分の城(当時はまだ、諸侯の存在す
る時代だった)、家族を捨ててサイババ師に帰依し、世俗な欲を捨てて、6帖一間程の広さ
のサイババアシュラムの区画内にある小さな質素な部屋に暮らしていた。
筆者は、おじい様も父上からも、かわいがっていただいたが、デリーのアニタの家にお邪魔
したときはアニタの母親がいらしていた。
諸公貴族階級出身の母上は、優雅なサリーを身に着けて、気品を漂わせていた。もともと
は、あの、バカヴァッド・ギータ の主人公である、クリシュナ神の生誕地マトラーの王族
の姫である。アニタは、今回筆者と一緒に日本に行きたいと言っていたが、長女の試験とか
ちあってしまった。
こうした身分の確立された社会的に裕福な方達ばかりが筆者の友達ではない。運転手やお手
伝いさんなど、雇用関係にあった人とは、なかなか親交を持つまでいたらないものだが、幸
い、筆者は、7年間運転手として勤めてくれたボビーとはいまだに家族づきあいが続いてい
る。
今回も、数度、彼の仕事の休みの日に筆者とタクシーで住所も道もわからないで困っている
筆者の目的地に随行してあちこち、タクシーの運転手に指示しながら、迷うことなく、行き
たい場所を一緒に回ってくれた。彼は”飲んだくれのボビー”と家族中で困りものになってい
た時期、筆者のドライバーになった。道の真ん中で大の字で酔っぱらって、寝てしまい、バ
ケツの水を汲んでもらい、頭からかけて起こしたことがある。それでも愚たん愚たんの酩酊
状態だったので、思わず、女だてらに若者だったボビーを正気に返すよう、頬を平手打ちに
したこともあった。
それでも、なぜか筆者とは信頼関係が生まれた。それまでのドライバーのような、盗みやご
まかしをすることなく、少しずつ、酒の量も減って、真っ当で忠実な文字通り”足”になって
くれた。
。右端(向かって)がボビー
まだ1人大切な人がいた。筆者を”自分の姉”と公言して妻とともに、いつ、お宅に伺って
も、昼食や夕食を取急いで、調理して私用に作ってくれて、歓待してくれるジェッシーさ
ん。
ジェッシーさんの家族:向かって右が奥様、左がお嫁さんと愛孫
ジェッシー氏は、愚息にとっても大きな存在になっている。
以前、息子の会社が賄賂目当てで現れる役人で辟易していたとき、拙ブログでもご紹介した
”私が相談した信頼おける友人Jさん”とはジェッシーさんのことで、弱みに付け込んで、賄
賂を毎月とりに来ていた公務員に対して、ジェッシー氏の協力で、万全な構えをとることが
できた。
彼は、現在、事業家となって成功しているが筆者が彼と会ったときは 貧に窮していた。
M新聞社の運転手を解雇され 職を失っていたのだ。筆者も 日本人でありながら、彼の立
場の正当性を信じていたので、何度か、M新聞社の日本人支局長と彼の間で、”嫌われ者”に
なるのを覚悟で 中間にたって、話し合いを試みた。
しかし、結局、折り合いがつかず、10年以上の長きにわたり、裁判で争った結果、勝訴し
た。この件がきっかけで筆者を姉と慕ってくれるようになった。
今回の家の修復にあたり、世話になったラジンダーは、20年にわたって、主人の会社で代々
の特派員に給仕してきた日本食の上手な、コックさんシタラム氏とナディ―夫人の長男だ。
毎年、帰印のたび、御宅に伺い、今は亡きお世話になった二人の慰霊に手を合わせていたが
ナディ―夫人は、他界する寸前まで筆者のことを懐かしんでくれていたとラジンダーは語っ
た。
”日本にいるマダムに電話して話したい”と 息をひきとる最後の日、ママ(ナディ―夫人)
は周囲の人達に話したという。その言葉の裏にある、お二人と構築できた関係を忘れないよ
う 残された家族たちと親しくお付き合いを続けようと 今回心から思い、ラジンダーに冒
頭書いた、壁の色の塗りなおしをはじめとして、修繕の仕事を頼んだ。
昨日は、8年ぶりに、インドに嫁いだ日本人Sさんも拙宅を訪ねてくださり、8年ぶりの旧交
をあたためた。
この方のご主人 Nさんはインド政府の芸術庁の官僚だった。筆者のシタールを応援してく
ださり、奥様が日本人だったのでそのご縁もあり、親しくお付き合いをいただいた。
1998年6月17日、不思議な出来事があった。よくある、夏の日の怖い話にも似た、それで
いて、懐かしいお話をさせていただこう。
当時、筆者は息子と中東旅行の最中だった。疲れた体をチェックインを済ませた、アンマン
のホテルのベッドに横たえ、休んでいた。ウトウトしかけたころだった。部屋は熱い光が入
らないよう、カーテンをしていたので、薄暗く、心地よい寝入りばな、突然、部屋の片隅で
灯りがともった。良く観ると、つけていなかったテレビが突然ついたのだった。何事が起き
たかと思う暇がないほど、瞬間的に音楽が流れてきた。
”つけたの?”と私は言葉を出して、息子を見れば横のベッドで寝ている。リモコンはしか
も、我々のベッドから離れたところに置いてある。
音楽が流れてきたが、それは、聞き覚えのあるメロディーだった。突然、明るくなったテレ
ビに”春のうらら~の・・”と メロディーが、隅田川の情景とともに間髪いれず、流れ始め
た。呆然とそのメロディーが耳に入ってくる間に、直観が脳裏に響いた。誰かの訃報だ。
”ねえ、Nさん(Sさんのご主人)の身に何かあったのかもしれない”と、テレビの音響で目
覚めた息子に話しかけた。
その理由はこうだった。Nさんは、自分の家族にニックネームをつけ、すべてそれが花の名
前だった。奥様をSと呼んだのも、それはヒンディー語で”花の代表各”を意味する言葉だっ
たし、筆者が彼にプレゼントした、子犬は、桜(さくら)と命名され、親しい友人にチュー
リップ、などと、花の名前をつけていた。’春のうららの墨田川、上り下りのフナビト
が・・” この情景は春である。桜の花が咲きそろった墨田川の土手を見ながら、風情ある
船で上り下りする光景をうたっている。
Nさんは、何より、日本をこよなく愛していた。彼の文化庁の職場を訪れたことがあるが、
りっぱな能舞台まで造られていた。日本の文化に精通している人だった。日本人の愛する花
が桜であることも知っていた。きっと、Nさんのメッセージだと感じた。そうでなければ、
中東のオマーンの国のホテルで、寝ていたとき、テレビが突然ついて、しかも、日本の歌唱
を流すなど、ほぼ、あり得ないことだと思った。
先日、デリーの家に遊びにいらした、奥様のSさんに アンマンでのこの不思議な出来事を
話した。
驚いたように話を聞いていたが、Sさんはしっかりした口調でゆっくり言葉にした。
”そうですか…その頃、主人は病院で危篤状態、結局 二日後、29日に亡くなったので
す。”
さて、最後に記しておきたいのは、これまでこのブログで何度も取り上げた筆者がかけられ
た黒魔術の、主宰者側、つまり、かけた人 との遭遇だ。彼は、以前働いていた会社が、日
本人の社長にとって代わり、その時、マネージャーとして雇われた筆者の下にいたのだが、
旧スタッフが会社を辞めるとほぼ同時に、新しい日本側の経営陣から解雇され、筆者の事を
恨んでいたという。
職を失った疎ましく無念の情で筆者に対して怒りで、ブラックマジックをかけた人物と
偶然の邂逅をするとは、思いもよらないことだった。(拙ブログ、黒魔術 前・後編参照)
ある御宅にお茶に招かれ、そこで働く二人の給仕のうち一人がまさにラメ―シュその人だっ
た。
お互い、顔を見交わせて確認しあったが、一瞬 気まずい雰囲気がはしってしかるべきなの
に、あまりにも唐突な出会いだったので、むしろその出会いの印象は淡々としていた。
要人と1時間ほど談笑。失礼するとき、彼がまた、お盆を持って茶器を下げに筆者のそばに
立っていた。
思わず、”あのときはあなたに、大変な想いをかけたようだけど悪かったわね。Iam orry"
と 自然に言葉が口からついて出た。すると、彼は、うつむいて、ヒンズー語で、”まーふ
きーじえ”(赦してください)” と穏やかな顔で返答した。不思議なこと~昔の諸々の怨み
つらみ、誤解、思い込み、などなどが光りの中に、雲散霧消していくような気がした。
アパートの部屋を淡い黄色と金色を混ぜて塗り直し、修理する家具はすべて補修したと同時
に、こうした、”古い傷つけあった念”も、補修されたという事なのだろうか?
自然治癒力は生命力の発露。その発露のためには、周囲に大いに感謝して、恵みに対して
心の底から生かされている事実をしることから始まるのだろう。
水がある、屋根がある、雨風太陽の日差しをさえぎってもらえる、火があり、食糧が与えら
れ、支えと励ましがある。
一人では生きていけないインドの大地の生活に多くの人達の愛情と手助けと支えがあったこ
と。そして、こうしてインドにいる間も、日本での老いた母を助けてくれる介護関係の人達
や家族の支えがある。生かされ生かす命の重み、すべてすべて、人々すべてが共有している
愛情と共感が この地球の大気の中で、巡り巡って自分自身に、心の潤滑油を与え続けてい
る。
これらが理屈ではなく、自分の心にひたひたと寄せる波のように、デリー滞在の毎日毎日、
いろいろな方達と談笑し、お互いの存在を受け入れて喜びあえる時間の中で噛みしめること
ができた旅となった。