自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

日本と他国の”見せる”意識比較

2014年04月25日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

国際化~自分の尺度と人の物差し     2014・4・25

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日本では なるべく自分の意見は聞かれなければ話さない。

ましてや、プライベートなことはあまり話題にしない。

親しくなる前に こうした個人的話題を展開すると、

相手は戸惑うかもしれない~と 友人が教えてくれた。

土足で部屋に入って来られるような、ちょっと、押しの強い、

自己意識の高い 付き合いづらい人 という印象を

持たせてしまうからという。

 

筆者がインドで15年間、生活する間に これとはほぼ

反対の生活習慣を身に着けた。

自己アピールをしたりされたり、

家族構成を 初対面で聞かれたり、

どの住宅地に住んでいるか いきなり住所を

訊ねられたり、そして、やましいことが無い限り、

こういう質問に笑顔で答えたものだった。

インドではこういう質問で自分の立ち位置を知り

適切な応対ができると考えられている。

まず、年を聞くのも、自分より目上ならば

言葉づかいも丁寧に、目下ならそれ相応にする

ことがお互いのコミュニケーションを円滑にさせる

手始めの一歩ということになる。

 

カースト制度の影響が、いまだに残っている地域や

印度人の集団の中で、相手の属している

社会的クラスを知るというコミュニケーションの一歩が

あったようだ。

例えば、上記に挙げた数問の質問で、相手がどの

クラス(カースト)に所属しているか、経済的状況はどうか、

したがって、付き合っても大丈夫か?信用できるか?

などの答えを(独断的とはいえ)引き出すことができてしまう。

 

たとえば、家族構成を聞かれれば、必ず、

”ご主人の努めている会社は?”、

”お子さんの通う学校は?”

の質問になる。

外資系の会社か?ホワイトカラーかブルーカラーか?で

大体の収入を予測する。

子どもの通う学校が、公立の学校か? 私立か?で

経済的状況を判断する。

 

印度人の親たちは義務教育は、私立でと考えている。

公立は、公務員の先生であるから、適当な教え方で

適当な収入を得ることができる安易な教育の場という

考え方がいまだにあって、優秀な子どもや親が裕福な

子どもたちは必ずと言ってよいほど、私立に入る。

公立と比べてその学費などはかなり高額になるから

中流以上の家庭でないと、入学してもその維持や教育費

などが大変で通わせるのはなかなか難しい。

 

 

住んでいる場所を答えれば、外人居住地区(高級住宅地)か

治安の良い住宅地か、脱税で有名な地域か、スラム的な貧民層

が住んでいる場所に近いところか、政府官僚の人達の一画か

などなど、かなりの情報が入手できる。

”どこに住んでらっしゃるの?”

この質問は必ず、といっていいほど初対面で聞かれる。

 

如何にも裕福なマダム然とした初対面の女性から

身に着けているサリーを誉められて、

”どこの店でお買いになったの?”

と聞かれた。

さらに

おいくらだったの?” と 単刀直入に

聞かれることもある。

これは、ドイツ大使館主催イベント会場での

一コマだったが、こうした単刀直入な質問には、

良識ある日本人は、応えるにも、戸惑いを覚えるだろう。

 

見せるより、気がついてもらう。

これが 日本人の間のコミュニケーションでは大切

だとわかってきた。

ところが、インドも、西洋の国々でも、気づいてもらう

より、見せることが大切だと教えられる。

見せない限りは 他人は、気づくこともないだろうし、

気づこうという気持ちもないからだろう。

 

筆者の親しいインドの友人にこういわれたときは

正直ショックだった。

”私をよりよく理解してもらいたいから云々・・”

と話を切り出したとき、

”誰も あなたのことを理解したいと思っていないわ”

だから、甘い期待を捨てて、自分を表現していくほかない

という意味合いがこもっていた。

誰も他人を理解するための特別な思考時間をもつことはない。

自分で自分の気持ちを表現して できるだけ

わかってもらうと努力する以外、理解しあうということは

ないのだということを暗示していた。

 

私たちは 日本人の良い面はいろいろな機会で

聞いたり読んだりして ”日本人はそういうものだ”という

当たり前の意識を持っているだろう。

たとえば、日本人は、誠実、正直、勤勉で、気配りが

自然にできるものだといった 社会的通念のようなものだ。

私たちはわかっている、

でも、海外に行けばその物差しが異なるから、

一つの思いやりの仕草が、気配りだと感じてもらえないことが多い。

それがまた些細な誤解を生むこともある。

 

こうした、日本人の長所を積極的に”見せる”となると、なかなか難しい。

外国を相手に、苦手な言葉で自分たちの想いをわかってもらうのは

もっと難しくなる。

 

多様性の文化や言葉が日常交叉していることに慣れている

印度やヨーロッパの人たち、対照的に、単一文化国家と

して異質な価値はあまり慣れていない日本民族。

物言えば唇寒し~という言葉が公然と使われる国。

自己表現されなければ、存在感がなくなってしまう異国。

 

誠実、勤勉、努力家という日本人のイメージは好印象と

して受け入れられている反面、何を考えているか

わからないという批評も聞く。

イエスマン、何でも ”はい”と答えるのだが、実際は

本音が違う~だから、日本人の’yes'はどう理解して

いいかわからないと言われる。

 

国際的な子供たちを育成するという目的で

英語が小学校から導入されるという。

国際的というのはどういうことなのだろう?

いろいろな物差しを持てること。

価値観を一定化しないでその国々の文化を背景とした

観方を理解しようとする態度を養うこと。

日本の素晴らしい精神文化を反映して、国際的に

貢献することはどういうことかを考えてみる事、

など、国際化と一口に言っても、その意味合いは深いと思う。

 

英語を話せることは国際化の大切な要素だが、それだけ

が国際人の条件ではない。

人と人とのかかわり、助け合い、それを国際的に広げよう

とする気持ちを養うこともその一つだろう。

 

先日3月11日は、あの大震災の三年目の記念日だった。 

多くの犠牲者やご家族への応援・支援・復興への

日本中からの厚い想いが、被災地の方達へ向けられていた。

これだけ団結した想いで日本中が一つになれるということは

この震災の前は、誰も予想できなかっただろう。

 

国際化というのは、言葉を変えれば、これだけ結束できる

日本人の優しい想いのエネルギーを 異文化圏にもっと、広げる努力を

していくことも含まれるのだろう。

 

日本人はアジアに位置していてアジアではないと アジア人同胞たちに

評されたことがあった。

いつも アメリカや西欧に目が向けられているから

というのがその背景にあった。

たとえば、難民の問題。

ミャンマーやチベットから流出した、難民達の苦悩など

筆者を含めて 興味を持って語られることもなかった。

日本のメディアで話題にとりあげることも多くはなく、

状況を知る機会そのものが なかったように思う。

関心がないのではなく、事実を知るチャンスがないという

ことなのかもしれない。

事実を知らせようと努力することも、ある意味、知ってもらおうと

声をあげることに通じる。

 

国際化というのは、違う尺度の物差しを心にもっていること。、

異文化の対応に対して、それに見合った尺度の定規を当てはめる

能力、そして選んだあと、相手の立ち位置にたって理解を深め

行動に移せることなのだと思う。

そのためには ”気づいてもらう”まで待つことうより、

声をあげて、相手に気づいてもらえるよう、何を考えているか

見せる意気込みも 大切なのかもしれない。

いまだに このこことは、筆者も自分自身への大きな課題の一つとして

認識する昨今だ。

 

 

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