人生万事塞翁が馬 2014・7・13
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ふくふじょう ふぞうふげん・・・・
これは今日のタイトルの般若心経の一節です
それと人間万事塞翁が馬とどう関係あるのかというと、
この世は幸不幸、が糸のようにより合わさって、善いと見えれば
悪い結果、悪い結果になったと思えば 良い結果がもたらされる
ということで、
一喜一憂、二つの対照的なポイントを行ったり来たり
する振り子のような感情とともに私たちは生きているという
ところでしょう。
般若心経では、汚れ(垢)も 浄もなく、増えたり減ったりすることが
ないのが真理(法)であると言っていますが、
私たちがこの世に生きている限り 感覚機能と感情で揺さぶられている
心がある限り、こうした 感情に左右される観方からなかなか
逸脱できないのも事実です。
これは、想像のお話しですが、こういうことが人生にたびたび起こるのだ
と思います。
在るところに、素晴らしい馬と、可愛い息子を愛してやまない男がいました。
息子は父親の期待を受けて 立派な騎手になりますが 反抗期に
行方をくらまします。
父親は愛する息子と愛馬を失い 失意の中で暮らしていると
その愛馬はこれまた美しい雌馬を連れて、息子と一緒に
戻ってきます。
男は今度は有頂天になります。
なぜなら、愛馬はこの美しい雌馬に子供を産ませて、たちまちに
素晴らしい馬の家族が増えて 富が増したからです。
ところが、息子が落馬して、足を折ります。
もう騎手としても活躍できない。
だちまち、今度は、憂鬱な想いに息子の将来をおもいやって
父親は悶々とします。
暫くすると、戦が始まります。
多くの若者が戦場に駆り出されるなか、息子は足が不自由
なので、免役になるのです。
父親は安堵の境地で愛馬と息子を満足げに見つめるのです。
上の話は、どこにでもある日常的な出来事を
少したとえ話で書いてみただけです。
何をこの話が伝えているかというと、結局 人は
運が良いか悪いか、想いのままにいけば幸福感、それが
かなわなければ失望感を味わい、愛馬や愛する息子というように
自分の幸せを外の対象物に根差して図っていることが
多いということでしょう。
一人きりで生きているヒマラヤのヨギや聖者のように、自分の中の
本性(神性・仏性・実相)とともに生きていれば
こうした二元性を超えた世界を感じることもたやすいのかも
知れません。
ところが日常の中で右往左往していると、心が充足しているという境地に
いたることは なかなか、無理ではありましょうが、自分の内面を見つめる
きっかけは少なくないでしょう。
たとえば、対象依存症 という 人間特有の嵯峨(さが)を自覚すれば、
自分自身=?(ってなあに?)という根本的な問題に
取り組まざる得なくなるでしょう。
覚者は こう、言います
”対象は常に変化している。
増えない減らない その 真実なる実存はどこにあるのか?
それを見つけない限り、常に人は対象を通して、
他者の眼を通して自分を評価したり、擁護したりして
不安の中で過ごすことになるだろう。”
では対象依存という言葉の反対の概念はなんでしょう?
それは、自己完結、自己の完全円満を自分の魂の中に見出すこと。
それは、常に第三者的な”冷ややか[冷静な]目”で
自分自身を見つめる訓練をすること、
その眼を持つ自分と向かい合うことで
人は誰の批判も賞賛も、認識も意見も、必要がないと
感じるに違いないと思います。
ちょうど、ヒマラヤの聖者が一人で生きて充たされているとき、
弟子が追いかけて
”一人で先生はお寂しいでしょう”
と問いかけたとき
”お前と会うまでは私は寂しいという観念はなかったが
お前と話すことで ’寂しい’と感じられたよ”
と禅問答のような
応えを返しますが、それと何か共通した境地のような
気がするのです。
筆者のインド人の親友に、ボーイフレンドと、いわゆる身分格差が
大きすぎて(彼女の恋人はマハラジャだった!) とても”さみしい”と
打ち明けられたことがあります。
ところがその後 会ったとき、以前とは違い活き活きと輝いていたので
その理由を聞いてみた処、
”自分がとにかくハッピーでいなければ、相手もハッピーに
なれないことがわかったの。
恋人とは月に一度会えるかどうかだけど、自分がまず幸せを
心の中で見つけることが先決。
会えないから、とか、将来は とか くよくよしていたら結局
相手にそぐわない自分にどんどんなっていくだけだから・・まず、
自分が幸せにどんな時でもいられるが大切だとわかったの”
と語ってくれました。
ほんとうにそういうことなのでしょう。
相手が自分を愛してくれるから幸せ なのではなくて、相手を
愛しているから幸せ であることが先決ということでしょう。
周囲は移り変わっています。
一つとして昨日と同じものはないのです。
自分の中にある、変わらない真実、それを見つけるのが人生の一つの
目的であることを、塞翁が馬 の逸話から感じる今日この頃です。
そして清いとか汚いとかそんな二つの対立した観念に
惑わされることなく、どんな局面も裏表がある以上、悪い方を
見たらきりがない。
ほんとうは 真実は汚いもきれいもない~と知ることから
内なる眼が輝き始めるのだと思います。