幸せの一つの定義 2014・7・19
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地方によっては7月にあるいは8月にお盆をする
ところがあるという。
彼岸 という言葉。
あちらの岸、そして、亡くなった人達のいる世界。
さらに、悟りの世界という意味もある。
お盆には、あの世にいるご先祖様たちへ思いを馳せ、
迎え火と送り火をたいて御魂を家におよびする。
それは、今生かされている命が
ご先祖様の命繋がりであることをもう一度思い出すために
大切な日本人の風習の一つとして守り伝えられる。
人間の命、生命、生き様は 人生という河のせせらぎの水
同様、幸せという岸にぶつかったり、不幸という岸に流れたり
して、過ぎゆく。
覚者は言う。
”どちらの岸部が良い悪いというわけではない。
どちらの岸にたどり着いても、そこに執着しようと
するのが、問題なのだ” と。
執着するというのは、その岸から離れたくないといって
しがみつく幼子のようなものだ。
どんなに楽しいひと時も、いつかは手放さなければ
ならない。
反対に どんなに苦しいひと時も過ぎてみれば、
笑い話で語り合うこともできるときがくるだろう。
今、この手にあるもの。
一つ一つ、掌(てのひら)から取り出して並べてみると
結構、たくさんのものを握っていることに気が付く。
健康、家族、趣味、旅行、車、家、衣服、名誉、名声、
地位、評判、実績、学歴、宝石、旅行、信頼 などなど。
今興味あること、興味あったこと、それを支えてくれる
仲間や家族、忘れていた人とのつながり、数え上げれば
きりがない。
筆者は6月の梅雨の時期、みなさんがジメジメして・・・と
呟くのを耳に挟んでインドの猛暑を想いだしていた。
冷房も扇風機もいらない、ひんやりとした雨の後の
夕風を受けて、もし、この時期のインドにいたなら、これは避暑地
の風に匹敵するだろうと 快く感じていた。
そして、梅雨明け宣言が出て、お日様がギラギラと日中
顏を出す。
洗濯物が思う存分乾く季節、
人々は ”熱い暑い。熱中症になりそうだ” と つぶやく。
日照時間の少ない北欧やイギリスの人達は、少しでも太陽が出れば
庭でも公園でも、恥ずかしげなく水着姿になって、太陽からビタミンD
を浴びるという話を聞いたことがある。
冷暑であれば、農作物にも被害が出る。
天気ひとつでも、角度を変えてみれば不満も感謝に代わりそうだ。
筆者の叔母は80歳を過ぎて、心臓弁膜症の手術を2度も
受けてそれでもとても元気で若々しい。
叔母は手術してから”生かされている”という意味合いを理屈ぬきに
味わうことができたようだ。
何を観ても、新鮮で、有り難く、今はただただ、自分の中にある
安寧の境地に、”幸福感”とともに漂っていることが、喜びだという。
先日お見舞いに伺ったが、マンションの裏山に散策に行って
河のそばに降りてきた鹿と出くわしたり、蛍の光に心を和ませたり、
朝明けの小鳥のさえずりに 小さな双眼鏡を片手に小鳥の様子を観察
しながら朝食をいただくのが この上なく充たされた気分だと
語っていた。
”あれがこう、これがああ、と理屈を言っているうちは
まだまだ、本物ではないのよ。”
と ポツリと言う叔母の顔に漂う優しい笑みが印象的だった。
覚者は言う。
”あなたは海です。
だとすれば、自分を漂う一過性の波と同化したり、
一滴の海水と同一視する必要があるでしょうか?
あなたは 常に変化し続ける こうした海の現象や行動とは
無関係なはずです。
なぜなら、あなたは 海を構成している”海水”に込められた
その性質そのものなのですから。
この性質は 海上がどんなに荒れても、波が変化しても、
変わらないものなのです。”
叔母が自分の生かされている命を慈しみながら 感謝の
毎日を送っている中に、誰からも侵入されたくない 幸福の境地が
あるというのももっともだろう。
その”海の一つの原子の資質”そのものに匹敵する 生命力を
叔母は自らの過酷な手術を2度も体験して感じ取ったに違いない。
理屈ではなく、実感として叔母の掌の中にあるということを知っている
に違いない。
叔母の心にある、内なる平和、お見舞いに伺って、むしろ癒しを
頂いたのは、私のほうだったかもしれない。
手の中にないものを求めるから進歩がある~という人もいた。
満足ばかりしていては、技術の進歩も社会の向上も有り得ないと。
さてさて、どうなのだろう?
原子爆弾をつくるウラ二ウムの発見は 原子力というとてつもない
パワーの開発につながった。
そして、同時に震災で露見した思わぬ大事故の可能性で原発に対する
意見も様々だ。
確かに、進歩と退歩を繰り返しながら歴史は動いてきているのだろう。
プラスとマイナス、陰陽、
二元性世界は、促進力とブレーキを効かせながら
進んできている。
インドの諺で ”うまれつき盲人の人は光を体験していないから、
闇を知ることはない”、というのがある。
光りと闇を体験するからこそ、手のひらにある、今の大切な所有物を
感謝を持って、味わうことができるのだろう。
そういう意味では、人間が満足を知らない動物であるという性質を
与えられているのも、一理あるのかも、しれない。