神人合一 にいたるまでの意識の変遷 2014・7・28
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先回は第4・第5の意識までのお話しだった。
”意識”という言葉を使っているが、ここでは”精神的次元”
という言葉でも言い表せるかもしれない。
”自分はスピリチュアルだ”と 自称する人達は、大体、
第五次元を意識している人達だといわれる。
第六次元=第六意識につながると、すでに日常生活を
超越するところでの、直観力や感覚に慣れ親しむので、
周囲からは 理解され難く、変人として捉えられること
すらもあるかもしれない。
第五の意識状態と第六の意識状態との決定的違いとは?
それは、自らの内にある、”神性意識の目覚め”にあると
言われる。
ところが、神性意識に目覚めていると自負している人は案外、
意外な落とし穴にはまっている。
”小我”、つまり、エゴ意識がそう思わせているのか、
ほんとうに目覚めているのか?
わからない。
”小我”がそう思い込んでいるときは、単なる、自意識過剰。
だからむしろ、自分は何の変哲もない”普通人だ”と思い、
思われている人達の中に目覚めた人がいるというのも
道理あるかもしれない。
聖人のような意識を持って、当たり前に、普通の暮らしを
している人達の中に第七意識、神性意識に目覚めた人がいる。
神性意識に目覚めるということは理屈を知っている
ことではない。
自分の本質に、愛や赦しという神の資質そのものを
持っていることを知っている人、そして、その資質に
沿って生きる悦びを感じている人達。
それは自分が他者と違うと高慢になるのではなく、
他者より悟っていると思いあがるのでもなく、むしろ
そうした神の資質は、他者にも身の回りの環境にある
すべてのモノにもあるのだから、互いに生かされている
という謙虚な心持で 充たされている人達だろう。
”宇宙の意思を感じる”のが”第5の意識”であるのなら、
その宇宙の感性が自分のみならず、すべての中に
みなぎっていることを知って、実践生活を送ることが
”第六の意識”の為せる技だろう。
好き嫌いや、優劣の判断や、善悪の診断を超えているから
常識的な価値判断はあまり、その人にとって、意味がなく、
有効性がない。
第六の意識の中では、総ての中に宇宙の巨大な広がりを感じ、
自分という枠を超えた時空の制限もない、壮大な広がりの中へ
意識を漂わし、その中に至福を味わう瞬間を体験する。
皆様は観音経を読まれたことがあるだろうか?
観音経には次のようなフレーズがある。
少し長いが引用すると、
”咒詛(しゅそ)諸の毒薬に身を害せんと欲られん者
彼の観音の力を念ぜば、還りて本人に著きなん
或いは悪羅刹、毒龍諸鬼等に遭わんに
彼の観音の力を念ぜば、時に悉く敢えて害せじ
若くは悪獣に囲繞(いじょう)せられて
利(と)き牙爪(げそう)の怖るべきあらんに
彼の観音の力を念ぜば、疾(と)く無辺の方に走りなん
元(正しくは虫偏)蛇(がんじゃ)及び蝮蝎
気毒(けどく)煙火の燃ゆるがごとくならんに
彼の観音の力を念ぜば、声に尋(つ)いで自ら回り去らん
雲雷鼓制(正しくは制の下に手)電し
雹(あられ)を降らし大雨を樹(正しくはサンズイ)
(そそ)がんに、彼の観音の力を念ぜば
応時(ただち)に消散することを得ん
衆生、困厄(こんやく)を被りて無量の苦、身を
逼(せ)めんに 観音妙智の力 能く世間の苦を救う
神通力を具足し、広く智の方便を修して
十方の諸の国土に、刹(くに)として身を現ぜざること無し
種々の諸の悪趣、地獄鬼畜生、生老病死の苦
以て漸く悉く滅せしむ
真観、清浄観、広大智慧観、悲観及び慈観あり
常に願い常に瞻仰(せんごう)すべし
無垢清浄の光ありて、慧日(えにち)は諸の闇を破し
能く災いの風火を伏して、普く明らかに世間を照らす
悲体の戒、雷震(らいしん)のごとく
慈意は妙なる大雲のごとく、甘露の法雨を樹(そそ)ぎ
煩悩の焔を滅除す、諍訟して官処を経
軍陣の中に怖畏せんに、彼の観音の力を念ぜば
衆の怨(あだ)悉く退散せん
妙音、観世音、梵音(ぼんのん)、海潮音
勝彼(しょうひ)世間音(せけんおん)あり
是の故に須(すべか)らく常に念ずべし”
様々な困難にはだかって、観音経を唱えれば、さまざまな
障害や災いからことごとく救われると お経は説く。
お唱えしながら、本当に 現代 かつ、今現在
このように現実的に救われるのか?と半信半疑に
ならざる得ない難儀な状況が次々と描き出される。
それでも 観音様に祈れば身を守ってくださるという。
これはどういうことなのだろう?
第六、第七の意識とどう関係あるのだろう?
観音経 を通して、拡大された第6の意識が、ポイント
だと思う。
第六の意識の自分に 観音経の波動で気づかされる。
言霊=御経の波動は魂から唱えあげれば、必ずその人の心
に反響していく。
こうして、第六の次元の波動に 自分の心を置くことが
できれば、もはや、危険の中でも安全に守られ、
混沌とした世界の中に投げ出されても、
心の中の平安を見失うことなく、静寂の中での
直観を信じて、自然に身を守る行動がとれ、
難なく”存在(生)を維持できる”ということを
この御経は指示(さししめ)しているのだろう。
観音様という神性意識と波動を合わせる境地にいたれば、
観音経に書かれていることが絵空事ではなく、
”奇蹟”のような ”実際の功徳”が信心を持った人の、
身の回りに起こり得るということなのだろう。
そして、第七の意識に入ったとき、キリスト意識とも
神性意識ともいわれる神人合体が起こる。
統一意識に入るという表現もされる。
この意識がヴェーダ哲学で言うところの、以下の説明に
合致するだろう。
”私はこの世界の中にいるのではなく、世界が私の中にある。
私はこの身体の中にいるのではなく、身体が私の内にある。
私は心の中にあるのではなく、心が私の外にある。
私が自分自身の中で創造を想念するとき、
身体と心と世界の創造が同時に起こるのだ。”
以前、見えない世界の科学のジャンルでお話しに出た、
カプラ―博士も アインシュタインの共同研究者であった、
ジョン・ホーラーも、
”宇宙の存在は意識的な観察者がいるから成り立つ”
と述べている。
意識的な観察者、観察する人がいるから、
”宇宙の星が存在する”というわけだ。
逆に言えば、”在り”と認める観察者がいなければ、
その創造物は 存在していないということになる。
第七の意識に到達すると、こういうことが、明白に
理解されるのだろう。
つまり意識が 創造に 直接関与し、 意識 が
存在を貫いている純粋エネルギーであるということをだ。
この場合の意識は、第七意識、つまり、宇宙意識
のことを指しているのだろう。
宇宙意識こそが 言い換えれば”私という存在の源
(ルーツ)”でもあるといえないだろうか?