不二一元論(ヴェーダ哲学)の身体のさまざまなその呼び方
2021年2月27日
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前書き)
ヨガの大元とは、ヨガ理論の基本という意味で、そこには
ヴェーダ哲学の不二一論説がある。
ヨガの語源はユージュナーというサンスクリット語で、
これは本来の自分の中にある神と、身体を持った自分の
意識を結びつけるというところから来ている。
インド古代からはヨガの熟練者をヨギと呼び、彼らはその
意味で、神と一体化する修行を積み、これが今言うところの
ヨガの本質となっている。
様々な身体のポーズをとるハタヨガが健康的体操のように
人気を博しているが色々な種類のヨガがあり、今、ここで
皆様がこうしたものを読んでいらっしゃるのも、
ギャーナヨガと呼ばれる真理知識を吸収するという、
ヨガの行法の一つである。
南インドのサイババ師は上の講義をするにあたって、歌うように、
ベーダの一節を唱えられた。
”あなたは肉と血と骨を束ねた身体ではない。
あなたは、また表現されない欲望でも表現された心でもない。
さらにあなたは、あなたの解放を邪魔する愚かな錯覚でもない。
あなたが自分の内部の力を認めさえすれば、あなたは”
永遠のパラ―トマン”である。”
(サティアサイババ)
ヨガの目的は自分の心身を清め、神との波動に限りなく近づき、
心には安寧を身体には健康を、心と身体には調和がとれた
関係をつくることにある。
言い変えれば、自分を聖化することだ。
ここでスワミ(サイババ師のこと)は人間は肉体だけでもなく、
感覚でもなく、知力でもなく、それらは私たちがまとっている
地球服の付属物だという。
誰も着ている服に翻弄される人はいないだろう。
服とか付属物はその持ち味を理解して活用するためにあるの
と同様に、私たちの身体もその意味を理解して使いこなさなければ
身体に振り回されることになってしまう。
身体の持ち味とは、何だろう?
身体のヴェーダ文献の中での呼び方はいくつかある。
今日はそれをご紹介したい。
まず、〝ダーヤティ・イティ・デーハ―”という呼び名。
この意味は’燃えてしまうもの’ということ。
肉体は、死ねば燃やされるし、生きていても心配事や恋煩いで
心が燃焼されれば、身体も負のエネルギーを使うことになる。
そこでヨガをする人たち、特に賢者であるヨギは太古から
こう祈りを捧げていたという。
”ああ、このような当てにならない肉体に頼る代わりに、
主なる神ハーリー(ヴィシュヌ神のこと)の蓮華の御足の御元に
私を置き給え”と。
燃えて儚い身体の別名に”サリラ”という言葉がある。
”シリャテ・イティ・サリラハ”
とスワミは口にした。
その意味は
”朽ち果てることを免れないものはサリラと呼ばれる”
という意味で、これは、青年期の一番溌剌とした若さのはち切れんばかりの
肉体も、年を経て活力を失い病にかかり、足腰が曲がり、朽ち果てて
行くという、宿命を持っているのが、この肉体である~ということだ。
サリラ、という朽ちる肉体もそれと真逆の言葉で呼ばれることがある。
それは”マンディール”という言葉、神殿という意味だ。
刻々と変化していく肉体は、”ジヴァ”(シヴァではなくジヴァで
あるのでご注意!)
と呼ばれる’個別の魂’を祀る神殿でもあるからだ。
つまり、この肉体は”神の宮”でもある。
アートマ(至高不変)と呼ばれる、神聖な自分が鎮座している寺院
ということだ。
ジヴァはアートマの別名、だとしたら、その神殿の肉体を構築している
五臓六腑や器官は、大切に扱われるべきだろう。
大切に扱うということは、神殿に仕える巫女たちのように、清潔に
清らかに扱われてしかるべきということだ。
たとえば、’口’は良きことを語り、清らかな食べ物を口にして、
’手足’は善い行為をするために使われ、耳や目は、清らかなものを見たり
聞いたりして、善き思いで心を満たすことが、ジヴァを祀る宮殿(肉体)
に仕える者たち(眼や耳などの五感器官)のお役目と言えるだろう。
スワミはこう私たちにアドヴァイスした。
”どんなことを為す前にも、いつも自分自身に次のように言って
聞かせなさい。
’私は個別のアートマンとしてこの身体に住んでいるブラフマン(神)
である。
そのようなものとして、私がこの行動をするのは正しいか正しくないか?’
と常に反芻して自分自身に言い聞かせながら、行為をなすのだ。”と。
もう一つの身体の別名に”クシェトラ”という言葉がある。
クシェトラを知る者は”クシェトラジナ”と呼ばれる。
クシェトラそのものの意味は、”神聖な波動に満ちている聖地”を
意味して、印度で言えば、ヴァラナシやティルパティ、など
ガンジス川の流域や神々の寺院のある場所、日本でいえば、
奈良や京都の古き聖地に立つ寺院や神々に由来する山々などを指す。
この身体がクシェトラと呼ばれるのは、この肉体細胞の一つ一つ
が聖い想念や思念で満たされる場所でもあるからだ。
聖い想念で行動を起こすと、善行となる。
その善行をプーニャと呼び、反対に罪深いことをバーバと
サンスクリット語で言う。
つまり、このクシェトラ(肉体)の畑ではプーニャ(善行)の種をまき、
バーバ(罪)の種はまかないよう、細心の注意で心がける必要が
出てくる。
しかしその甲斐はあるというものだ。
なぜなら、善き想念の種は、畑で蒔く物質的な種と違い、不作と
いうことはあり得ないからだ。
良き想念の種を蒔けば良い結果が必ずもたらされるし、悪い想念の種
を蒔けば、それは自分で刈とらなければならない結果が生まれる。
こうしてスワミは身体のさまざまな呼び方を教えながら、善い想念
をいだくこと、
目と耳と口は宮殿(マンディール)の窓や入口にあたるわけだから、
善きものを見分けて、善き言葉を聞き、善きことのみを口に
するように教えた。
日光の東照宮の”見ざる、聴かざる、言わざる”の三匹の猿の彫刻は
あまりにも有名だがインドでもこの猿は何故か有名だ。
そしてスワミの言う、善きものを見分け、善き言葉を聞き、善きこと
のみ口にせよという教えはこの三匹の猿の彫刻の意味しているところ
だと、印度人から私は教わった。
さて、身体をアートマの宮として清浄に保つために、忘れてはいけない
ものがある。
食事だ。
次回は正しいヨガ行為者の食事とは何か?をお話ししたい。
ただし、口に入るものだけが食物とは限らない。
私たちの身体には少なくとも4つの入口(くち)がある。目、耳、鼻、
口でここから入って来るものを身体への食べ物とみなす。
なので、菜食主義を御薦める内容ではないということ・・
サットヴァ的なものを身体に入れて行くという内容になる。
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