自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ジャッキーチェインの言う平常心 

2013年05月14日 | 健康のための心の波動

平常心と無心 平成25年5月14日

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9月12日(水) 


ベストキッド という映画を観た。

ジャッキーチェインは、人生にくたびれた風情で登場。

質素なアパートの管理人役だ。

ところが、実際は、カンフーのマスター(達人)である。

そのアパートに最近引っ越してきたばかりのアメリカ人親子。

デトロイト出身の12歳の黒人の坊やと母親。

北京に到着早々、クラスメートのいじめにあい、小さな坊やは、

コテンパンにやっつけられていた。

そのクラスメートの腕を捻じ曲げるようにして、坊やの

窮地を救うのがアパートの管理人。

坊やは、ジャッキーチェインに危ないところを助けられ

それが縁となり物語は思わぬ方向に展開していく。 

ストーリーは、ひ弱な坊やが、その時のいじめ子、に 

公式のカンフー競技会で勝ち 優勝するまでの物語である。

 

ジャッキーチェインが その坊やの師匠として、坊やを徹底的に

仕込んでいく。

心を徹底的に磨かせる。 

同じ動作の繰り返し、忍耐力、発見、そして、もう一つ大切

の心構えを教えた。それが、平常心 だった。

平常心 といっても、日常持っている心 ではなく、常に平らかな心 

という 意味でここでは使っている。

 

強化訓練のために、ジャッキーチェインと坊やは とある

”霊山”の頂上に登る。

そこで坊やは一人の 女性修行者の修行風景を目にする。

片足でたち そのしなやかに 身を動かしている修行者の

目の前に コブラがいた。 

 

しばらく 怪訝(けげん)そうに眺めている坊や。

コブラを目の前にして、恐れることなく、ゆるやかに、

顔をコブラの動きと同じリズムで動かし、手足のバランスを

曲線を描く女性。

 

あたかも、コブラにマインドコントロールを されているかのようだ。

食い入るように見つめる坊やを師匠が呼ぶ。

 

師匠は、”聖なる水瓶” のところに立っていた。 

そして、その水瓶の、水を 坊やに ”飲め” と命じる。

”こんなうまい水、今まで飲んだことがないや” と 

顔を突っ込んで 水を思う存分 飲む坊や。 

そして 思い出したかのように、さっき目撃した光景を 

師匠に、尋ねた。 

”あの人は コブラの動きを真似していたの?” 

 

”いや、コブラが、彼女をまねしていたんだ。 

ご覧。 この水面を。何が映る?・・・・そうだ、お前の顔だ。”

師匠は言う。

”じゃ、こうしたら?”

と 師匠は水の表面に手を入れて、さざ波をたてる。

”僕の顔だけど、ゆがんで見えるよ。” と応える坊や。

師匠はさりげなく、坊やに言う。

そうだ。 穏やかな心でいなければ、相手と自分の真の姿が

良く見えないというこだ。相手は自分。自分は相手。

平常心でいれば、相手が、こうして、自分の心に、鏡のように

映るのだ

修行者は、コブラを相手に、その修行を試みていたことを暗示する。

坊やは無邪気にうなづいて言う、

”じゃあ、何も考えなければいいんだね。” 

師匠は歩きながら、さりげなく、応える。

”いや、’何も考えない’のと、’穏やかな心’とは、まったく違う。” 

以上が 印象的なシーンの一コマである。

 

人は、肉体の感覚器官、つまり、目、耳、口、鼻と体 

を使い、見る、聞こえる、味わう、嗅ぐ、触れることで、

様々な情報を摂取している。

そして、ハンニャ心経の中では それらの五感によって

もたらされる感覚は、無”である、と 明示されている

”無眼耳鼻舌身意”、つまり、五感感覚を 無 と否定している由縁は?

 一方 ”色即是空” (しきそくぜくう) で述べられるところの 

”色”、つまり、物質(肉体も含めて)は、本来の姿は、空” 

だと同経の中で述べられる。

 

この ”無” の意味と ”空” の意味の違い?

無というのは、”ない” ということなのか?

空というのは、”空っぽ” ということなのか?

それらの言葉と ジャッキーチェインが坊やに語った言葉が、

一瞬、交差した。

 

”無心” というのは、邪念を取り去ったときの心をさすのだ

考える。 

そして、徹底的に無心となり邪念を取り去ったとき、空(くう)

なる本来の心が出てくるのだと思う。

無心を”空心” とは いわない。

このジャッキーチェインの言葉: 

”心を穏やかに保つことと、考えないこととは違う。” 

心を穏やかに保つ、原語でどのように映画の中で使われて

いたのか、知りたいところだが、単に、安寧な心持以上の

意味があるような気もする。

むしろ、邪念を取り去る努力をして得られる、心持ではない

のだろうか?

聖なる水の静かな表面をその、安寧な心、に喩えた師(

ジャッキーチェイン)は、小さな弟子に、武士道(この場合は

カンフー道)を通じて、その心になることで、相手を

真正面から正しく見据え理解できると教えたのだろうと思う。

それができたとき、無駄なエネルギーを使わずに、相手を

倒すことができるというのも本当のことなのだろう。

 

 

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