自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

臨死体験の心理学的考察

2019年05月07日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

神経症患者が体験する、臨死体験とよく似た要素   2019・5月7日

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前書き)

これまでアニータの臨死体験から、同じく死の瀬戸際まで行って自分の医師としての使命

“生命医療”を自覚し、それに邁進した内田久子医師のお話をさせていただいてきた。

ここで、‘それでも臨死体験は胡散臭い’と感じていらっしゃる方がいることは否めないよう

に思う。

 

そこで、今回は、、先回に引き続き、そうした方たちの思いを代弁する科学的な説を

取り上げながら、臨死体験のお話の締めくくりにしたいと思う。

臨死体験を素直に、耳を傾けるとしたら、これは超自然的事象として受け入れている

ということになるだろう。

 

一方、科学的解釈をとことん追求するとすればいくつかのアプローチがあるだろう。

例えば、①  薬学的解釈、②生理学的解釈、③神経学的解釈、④心理学的解釈などだ。

前回は①と②に触れたので、今回は③と④について。

 

③  神経学的解釈

臨死体験が、神経障害によって引き起こされたとする説だ。

神経系統は脳、脊髄、神経を総合的に指しているが、実際にムーア博士(*1)は

神経障害を持った患者が臨死体験者に似た体験をした話を聞いている。

 

それは、臨死体験者特有の“フラッシュバック”である。

これはほんの短い時間に、自分の人生の体験、良いことも悪いことも、

忘れていることもすべて、幼児から死ぬまでの出来事をしてスライド形式で

次々と見せられる体験だ。

 

フラッシュバックとは、臨死体験者が共通して語ることで、光のような存在に、

自分が生きてきたすべての言動を映画のように一瞬のうちに、見せられる。

その際、相手に与えた悲しみや喜びの感情が自分が追体験するがごとく、

の相手の感情に対し、自分のとった行動を苦々しく反省したり、恥ずかしく

なったりする体験をいう。

 

人にやさしくしたこと、裏切ったこと、悲しませたこと、喜ばれたこと、

それらすべてが明瞭に思い出されるように、すべて、そう、すべてのシーンが

一瞬のうちにスクリーンに映し出されるというものだ。

 

この神経障害を患った患者はムーア博士に次のようにその体験を語る(*2):

”友達が部屋を横切るとき、その横顔をみていると突然、それは起こった。

彼の顔の右側が歪んでしまった。と突然、昔のいろいろことが意識の中に浮かび

上がった。

 

実際に起こった時と同じそのままに、鮮明で完全カラーで立体的でもあった。

私は吐き気を覚えた。あまり驚いてしまったのでその映像からのがれようとした。

その後何度も同じことがおきたので、私は慣れてしまいそうした映像が浮かび

上がってきても気に留めないようになった。“(以上引用)

 

ここまで読んで臨死体験をしたことはない素人?の私でさえ、臨死体験中の‘

フラッシュバック’と異なることに気が付いた。

 

それは“吐き気を催した”というところだ。また、“何度も同じことが起きた

という個所もそうだ。臨死体験で見せられるパノラマ的フラッシュバックの際、

そばには‘光の存在’(と臨死体験者が比喩する、大きなやさしい包み込むような存在)

がいる。

 

その存在は、当事者にそれを見る間、責めたり説教したりすることなく、ただ、

悪いこともすべて当事者自身が自らのとった行為を反省する糸口とするため、

悪いことではなかったという安心感をもたせつつ、そばに寄り添っているという。

 

少なくても吐き気を催すような代物ではないだろう。

また、そのパノラマを見る目的は明らかだ。

自分の生きてきた足跡、業績、対人へ与えた正と負の冠状、などなどを当事者が認識

することで、次へのステップとするためのものだ。

 

だから、何度も見る必要は全くないのだ。ムーア博士のコメントは以下だ。

物理的肉体からの遊離体験によく似たことを神経障碍者も体験する。

いわゆる、‘自己像幻視’といわれているもので、これはN.ルキアノウイッツ博士が

医学雑誌‘Archief of Neurology and Psychiatry’に寄せた優れた論文のテーマでもある。

 

このような奇妙な幻覚にとらわれると、患者は自分の視野の中に投影された自分の姿

を見る。この奇異な生き写しの擬像は唐人の表情や肉体の動作をまねる。

 

ふつう、本人の心象は正面から少し外れた場所にあらわれるのだが、当人は突然

あらわれた自分自身の姿を見て動転し混乱する。

この体験が先に提案した物理的肉体からの遊離現象にいくらか似ていることは確かだが、

類似点よりも相違点のほうがずっと多い。”

 

としたうえで、博士は、

“自己像幻視における幻影は常に生きているものとして知覚されるし、

幻影のほうが、本人より生気にあふれ意識もはっきりしていると患者自身が思う

ケースがある。

 

一方物理的肉体からの遊離においては物理的肉体は生命のないもの、いうならば抜け殻

のようなものとして知覚される。”

 

どういうことかといえば、神経症の患者が幻影をみたときは、その幻影のほうが

現実の自分より、生気に満ちていると感じる一方で臨死体験者は、肉体と遊離したとき、

その肉体はすでに自分の遺物、つまり、脱ぎ捨てた衣服のような自分と遊離した存在

として知覚するのだ。

 

さらに、ムーア博士は興味あるコメントを書いている:

“幻覚を見ている場合、自分の幻影が語り掛けてくる言葉、指示、嘲笑などを‘聞く

’意識を持つ。”(以上)

 

が、臨死体験者は先に述べたように自分の肉体は魂がぬけた物体としてみるのみである。

そして、臨死体験では空中に浮遊した自分が、下で倒れている自分の肉体全体を見ること

に対して神経症患者のそれは、首から上しか見えない場合が非常に多いという。

 

④ 心理的解釈

ムーア博士の心理的解釈に対する見解は少々辛辣でもある。“考え方、調査方法、

精神の存在と本質に対する根本的な理解の対立が、心理学者の間にあり、死後の

世界体験に関する心理的解釈は学者がどの学派に属しているかによって、

大幅に異なる。”(以上引用)

 

私は心理学には素養のないものだが、少なくても、死後の世界を扱うということは

公に学問対象としては成立していないように感じる。

 

スピリチュアルという言葉自体、多くの解釈があり、また、それゆえにこの言葉を

避けたいとする風潮があることは確かである。

 

ムーア博士は、彼自身が実際心理学者から聞いた意見や体験をもとに、臨死体験の

背景にある心理学的解釈を大きく二つに分けている。㋐は隔離調査 ㋑は夢・妄想の類

である。

 

まず、㋐の隔離調査の目的は、人が社会から断絶されたり、個人的レベルで肉体が

動かせず精神のみ活動するような状況でどのような反応がみられるかを探るものだ。

 

40年ほど前、横井庄一さんというルソン島で第二次世界大戦が終わったことを

承知しながら、日本に戻らず、ジャングルで身を隠すように生きてきた旧日本兵が

見つかった。

 

その後小野田寛男氏は戦争が終わったことを知らず、ジャングルの中で息をひそめて

生きていたのだが、無事に日本に帰還することができた。

 

こうした社会と断絶した人たちなどはまさに隔離調査対象になる人たちであり、

ほかにも、単身で極地探検をした人、海難事故から唯一救助された人などが

その被実験者といえよう。

 

ムーディ博士はこうした隔離調査を行ってきた心理学者たちと情報を交換しあった。

具体的にその様子を次のように記している。

 

“孤独な条件のもとで、心理学的に異常な現象を体験した人たちがいる。

そうした体験の多くは、パノラマのように人生で体験したことが浮かび

上がったとかたり、何週間もただ一人、漂流していた難破船の水夫たちは

救出される幻覚をみたとも言っている。

 

さらに、こうした人たちの 多くは救助されたのち、以前と比較してずっと内面的に

安定していると報告している。

このような人格の再統合は臨死体験で蘇生した多くの人たちが報告している内容と

明らかに似ている”(以上)

 

死を告知された病人の多くは一人部屋に隔離され、音や光をできるだけ遮断された

場所で面会謝絶、つまり訪問者が訪れることができない状態に置かれることが多い。

これはある意味、心理学的見地からいえば‘隔絶された状態’といえないこともない。

 

そこで、臨死体験は、事実死後の世界の体験なのか、こうした隔離による体験に

よるのか、一概に決定できないといえる部分があるということだろう。

 

ムーディ博士はこのような体験を、病院の隔離状態の中、経験したという患者の

手記を載せている。

引用する。

 

“入院していた時、状態は悪化。私はベッドの上に横たわり、目の前に現れる画像

を見続けていた。・・・一体何がおこっているのだろうと不思議に思い始めた。

 

画像となって現れる何人かは私の知人であった。そしてこの世を去った人たち

でもあったのだ、”(引用以上)

 

ムーディ博士はこの例をとりあげて、“この体験には死後の世界の体験といささか

似ているように思えるとしたうえで、

 

しかし、このほかには(臨死体験者と)類似の現象は生じていない点が異なる。・・・

隔離研究の成果をもって、死後の世界の体験を十分解明することはできない。

まず第一に、隔離された状況で生ずる種々の精神現象そのものが現在の理論では

解明できないのである”(引用以上)

 

少なくても隔離が人間の意識の一つの不可思議な領域に踏み込む方法の一つで

あることは否定ができないだろう。

 

それは、私たちが精神修行をするとき、人里離れた場所、その典型的な例が,お釈迦様。

悟るまでに苦行されたインド中央西部の岩屋の洞窟はまさに、自分を下界と

隔離するための場所として選ばれたところだと、この目で見て納得できた。

 

次に㋑の夢、幻覚、妄想という心理学的背景と死後の世界体験を考えてみる。

一言でいえば、死後の世界体験は、“妄想”であると断定する観方である。

ムーディ博士はこの説に関しては、特別に声を大にして反論しているかのようだ。

引用すると、 

 

“私はいくつかの要因からこの見解は成り立たないと考える。

第一に現代社会において、死者を見舞うと考えられていることと、

体験者の報告に認められる最大の共通点がそれぞれ異なっているものの、

その報告内容や様々な出来事が生じる順序はよく似ているという事実を

考慮すべきだと思う。

 

私が面接した人たちとは無縁な歴史的文書や秘教的書物に書かれている

死後体験の様子とその人たちの体験描写が驚くほど一致していることは考慮すべきだ。

 

第二に私が面接した体験者たちは精神科の患者ではないということ。

精神的に安定していて、正常な社会人でもある。

これらの報告をしてくれた人たちは、少なくても、夢と現実を識別できるだけ

の社会的責任ある立場を持つ人達であるという点にある。“(以上引用)

 

私がムーディ博士の面接した体験者の話を読んだ後の感想も同様だった。

それはこれまで、インドの聖者から、大師から、ほかにも多くの覚者たちが

述べる‘死後の世界’と、ほとんど異ならない事実を、臨死体験者は自ら死後の

世界を垣間見たとする報告書の中で語っているのである。

 

こうした見解を考察したうえで、ムーディ博士は以下のような結論を述べる。

“新しい解釈を提案しようというつもりは毛頭ない。私が提案したいと思うことは

次の一点につきる。死後の世界の体験は,私たちに説明と解釈の新しい様式を

考え出すことを迫る新奇な現象である能性があるということ。

 

そして、その可能性だけは少なくても、押しつぶさないようにしたいと

いうことである。”(引用以上)

 

まさに、これからこうした領域の探求が堂々と科学的実験を伴うものとして、

深められ、”死後の世界”の存在の可能性の追求が行われていくことを願う。

 

 

(*1)レイモンド・A・ムーディ・Jr. 

バージニア大学及び大学院で哲学専攻。

1969年、哲学博士号取得、3年間のノースカロライナ東部の

大学で教壇にたち、1972年バージニア医科大学で医学博士号を取得。

その間1965年に死後の世界の体験談を

聞いて以来、臨死体験現象の研究に没頭する。

 

(*2)評論社の現代選書8.“垣間見た死後の世界” 昭和58年評論社

 

 

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