この日記の続きです ☆
建長寺の後は東慶寺である。縁切り寺として知られている。
鎌倉幕府第9代執権・北条貞時が、父・北条時宗死去の翌弘安8年(1285年)、覚山尼を開山として建立した寺である。覚山尼は、北条時宗の夫人であり、貞時の母にあたる人物で、時宗の死後、出家して尼となった。なお、当初は真言宗の寺であったものを覚山尼が臨済宗に改宗したとの別伝もある。
東慶寺は現在は男僧の寺であるが、明治36年(1903年)までは代々尼寺であり、尼五山の第二位の寺であった。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから当寺は地名をとって「松ヶ岡御所」と称せられ、格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に「縁切寺(駆け込み寺)」として知られていた。江戸時代、離婚請求権は夫の側にしか認められていなかったが、夫と縁を切りたい女性は、当寺で3年(のち2年)の間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があった。幕府公認の縁切寺として、江戸から多くの女性が東慶寺を目指した。ただし、女性が駆け込んできてもすぐには寺に入れず、まずは夫婦両者の言い分を聞いて、夫が離縁状(いわゆる「三下り半」)を書くことに同意すれば、すぐに離婚が成立したという。また、実際には離婚に至らず、調停の結果、復縁するケースも多かったという。この制度は、女性からの離婚請求権が認められるようになる明治5年(1872年)まで続いた。
近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた功労者として著名で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫もある。
当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、高見順、前田青邨(筆塚)、川田順、レジナルド・ブライスらの墓がある。また、旧制第一高等学校を記念する向陵塚がある。
wikiより
こちらも参考に☆
かつてこの石段を必死で上り家や夫から逃れようとした女性たちがいたのだろうか? 元尼寺ということもあるのだろうか四季花が絶えず、それもその置かれ方の細やかさが心に染みる。
ちょうど岩がらみという珍しい花が公開中であった。
本堂の裏のがけいっぱいにつるを伸ばしてそこを覆った岩がらみ その花の頃であった。
二週間しか公開されず、それも一日二回だけ そしてこの日が最終日。
なんて運の良い我ら熟女コンビw
これが元↓
ちょっとがく紫陽花を地味にしたような花だけど崖いっぱいに咲いている姿は壮観であった。
野趣のある本堂の庭
そしてここにも菖蒲田が
後ろの建物は茶店です。ランチ後すぐだったので寄らなかったけど、この店で菖蒲を愛でながらお茶なんてのも最高ですね。
この可憐な花は岩たばこ 所々に道祖神がたたずむ
ブティックの前には昼顔? こういったさりげないしつらえがなんともセンスが良かった。
当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、高見順、前田青邨(筆塚)、川田順、レジナルド・ブライスらの墓がある。(再びwikiですが)
高校時代、現国のテストで悩まされた小難しい文章の作者の気難しそうなジイサマたち、彼らがこの寺を愛し、この地で眠りたいと思ったのはとてもわかる気がする。
私自身は墓なんてどこでもいいと思っている口だけど 子孫のことを考えると 墓参りしてくれるのがこんな地だったら楽しみだろうとも思う。
ちょっと熟れすぎた梅の実
17
この後 北鎌倉駅から鎌倉駅へ電車に乗って YUMAMAさんおすすめのディ☆スのアウトレットブティックへ。
クレジットカードの関係で通販のカタログが時々届くので眺めるのだが、高級感のあるマダム御用達の品である。通販にしてはかなりのお値段なので一度も買ったことがないのだけど これがたまげたアウトレット値段。
あまりディスプレイが工夫されていないのだけど よくよく見るとお宝の山である。
ここで二人でかなり満足な(品もお値段も)買い物をすませ、ついでにその近くの八百屋で山椒の実を買い込み・・・
スイーツで〆る
茶処 小すず
なんておいしいわらび餅!
と最後まで満足な一日であった。
人との出会いは色々あるけど、この年になるとなかなかおつきあいまで発展しないものだけど、YUMAMAさんと出会ってこうやって小さな旅ができるほどのおつきあいができるようになったのは嬉しいことである。(オワコンと言われているあのSNSにも感謝しなければw)
YUMAMAさん 本当にありがとうございました。
実はこの次の日、ムスメが今度は鎌倉に行って、殆ど私たちと同じコースをたどったようだ。
そんなに詳しくムスメに解説したわけじゃなかったが、親子ってやっぱり好きなもののツボが似てるねってムスメの撮ってきた写真を見て笑ってしまった。
建長寺の後は東慶寺である。縁切り寺として知られている。
鎌倉幕府第9代執権・北条貞時が、父・北条時宗死去の翌弘安8年(1285年)、覚山尼を開山として建立した寺である。覚山尼は、北条時宗の夫人であり、貞時の母にあたる人物で、時宗の死後、出家して尼となった。なお、当初は真言宗の寺であったものを覚山尼が臨済宗に改宗したとの別伝もある。
東慶寺は現在は男僧の寺であるが、明治36年(1903年)までは代々尼寺であり、尼五山の第二位の寺であった。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから当寺は地名をとって「松ヶ岡御所」と称せられ、格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に「縁切寺(駆け込み寺)」として知られていた。江戸時代、離婚請求権は夫の側にしか認められていなかったが、夫と縁を切りたい女性は、当寺で3年(のち2年)の間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があった。幕府公認の縁切寺として、江戸から多くの女性が東慶寺を目指した。ただし、女性が駆け込んできてもすぐには寺に入れず、まずは夫婦両者の言い分を聞いて、夫が離縁状(いわゆる「三下り半」)を書くことに同意すれば、すぐに離婚が成立したという。また、実際には離婚に至らず、調停の結果、復縁するケースも多かったという。この制度は、女性からの離婚請求権が認められるようになる明治5年(1872年)まで続いた。
近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた功労者として著名で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫もある。
当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、高見順、前田青邨(筆塚)、川田順、レジナルド・ブライスらの墓がある。また、旧制第一高等学校を記念する向陵塚がある。
wikiより
こちらも参考に☆
かつてこの石段を必死で上り家や夫から逃れようとした女性たちがいたのだろうか? 元尼寺ということもあるのだろうか四季花が絶えず、それもその置かれ方の細やかさが心に染みる。
ちょうど岩がらみという珍しい花が公開中であった。
本堂の裏のがけいっぱいにつるを伸ばしてそこを覆った岩がらみ その花の頃であった。
二週間しか公開されず、それも一日二回だけ そしてこの日が最終日。
なんて運の良い我ら熟女コンビw
これが元↓
ちょっとがく紫陽花を地味にしたような花だけど崖いっぱいに咲いている姿は壮観であった。
野趣のある本堂の庭
そしてここにも菖蒲田が
後ろの建物は茶店です。ランチ後すぐだったので寄らなかったけど、この店で菖蒲を愛でながらお茶なんてのも最高ですね。
この可憐な花は岩たばこ 所々に道祖神がたたずむ
ブティックの前には昼顔? こういったさりげないしつらえがなんともセンスが良かった。
当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、高見順、前田青邨(筆塚)、川田順、レジナルド・ブライスらの墓がある。(再びwikiですが)
高校時代、現国のテストで悩まされた小難しい文章の作者の気難しそうなジイサマたち、彼らがこの寺を愛し、この地で眠りたいと思ったのはとてもわかる気がする。
私自身は墓なんてどこでもいいと思っている口だけど 子孫のことを考えると 墓参りしてくれるのがこんな地だったら楽しみだろうとも思う。
ちょっと熟れすぎた梅の実
17
この後 北鎌倉駅から鎌倉駅へ電車に乗って YUMAMAさんおすすめのディ☆スのアウトレットブティックへ。
クレジットカードの関係で通販のカタログが時々届くので眺めるのだが、高級感のあるマダム御用達の品である。通販にしてはかなりのお値段なので一度も買ったことがないのだけど これがたまげたアウトレット値段。
あまりディスプレイが工夫されていないのだけど よくよく見るとお宝の山である。
ここで二人でかなり満足な(品もお値段も)買い物をすませ、ついでにその近くの八百屋で山椒の実を買い込み・・・
スイーツで〆る
茶処 小すず
なんておいしいわらび餅!
と最後まで満足な一日であった。
人との出会いは色々あるけど、この年になるとなかなかおつきあいまで発展しないものだけど、YUMAMAさんと出会ってこうやって小さな旅ができるほどのおつきあいができるようになったのは嬉しいことである。(オワコンと言われているあのSNSにも感謝しなければw)
YUMAMAさん 本当にありがとうございました。
実はこの次の日、ムスメが今度は鎌倉に行って、殆ど私たちと同じコースをたどったようだ。
そんなに詳しくムスメに解説したわけじゃなかったが、親子ってやっぱり好きなもののツボが似てるねってムスメの撮ってきた写真を見て笑ってしまった。