おかんのネタ帳

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田中一村展

2018-09-17 23:35:57 | 日々のつれづれ
昨日は朝から佐川美術館へ行ってきました。
「生誕110年 田中一村展」を見に、姉と。



7月から始まって、今日が最終日。
行くのなら、もっと早くに行けば良いものを~
・・というのも、姉のところの孫たちが、
小学校でチケットを配布してくれたらしいんですね。

小学生は無料なので、親子で生きなさいというチケットやろうけど、
夏休みも、やんちゃざかりのチビたちは行きそうにもなく、
あまりに暑かったので、おばあちゃんである姉も、
なかなか行く気になれなかったようです。

なので、今ごろ、姉と二人で、そのチケットで行ってきました!



さて、田中一村。
姉が、テレビの「なんでも鑑定団」で、一村の絵を見たらしく、
南国の雰囲気の、大きな絵で印象的やったから、
見てみたいなと ← 庶民的なきっかけではありますけど(笑)

なので、南国の絵を描く人かとイメージしてたら、
実にいろんな絵を描いてた人やってことがわかりました。

幼い頃から絵が上手で、神童と呼ばれたらしい。
南画に秀でて7歳で文部大臣賞(天皇賞)を受賞したとか。

7歳の頃の絵も出展されてたけど、
本当に繊細な絵でビックリです。

東京美術学校へ入学するも、父親と自分の病、
それと貧困もあって2ヶ月ほどで退学したらしい。

独学で画を描き、田中米邨という雅号で、
南画を描いて生計を立ててたようです。

23歳で、南画と決別して新しい絵を模索しますが、
支援者から賛同が得られず、千葉の親戚を頼って移住。

千葉で20年間ひたすら写生に没頭したらしく、
千葉の自然や、植物、動物、虫などを繊細に描いてます。

ほんとに、上手な絵(シロウト目にも!)です。
画壇へのデビューを果たして、雅号を米邨から一村へ。

この頃から日展や院展など画壇への挑戦を何度も試みるのに、
ことごとく落選・・とうとう、画壇と決別します。

当時の画家というのは、描いた絵を売るというのではなく、
依頼されて描くという感じですね。
今でも、そうなのかも知れないけど。

なので、一村の場合は、スポンサーが医者とか、
千葉の親戚とかで、奄美黄島へ行く時の旅費は、
資金を出して、ふすま絵を描かせてるみたいです。

ふすま絵の展示に、和室風に畳敷きのコーナーも作ってありました!

奄美黄島への憧れは九州南部を旅したことがきっかけ、
と言われていますが、奄美の紬工場で染色工として生計を立てながら、
69歳で亡くなるまでの19年間、奄美の大自然の情景や
色鮮やかな花鳥画を描きます。

奄美では、国立療養所奄美和光園の官舎に住みますが、
ここはハンセン病の療養施設で、一村はそこで、
ハンセン病患者とも交流してたようです。

なかなか会えない家族の写真をもとに、
家族の絵を描いたり、してたらしいです。

そして、ここで、代表作といわれてる「アダンの海辺」など、
多くの絵を描きますが、一村の生前に、それらの作品を発表する機会もなく、
無名のままこの世を去ったそうです。

再評価されたのは1980年代以降かな。
テレビの美術番組で紹介されてから、一躍有名になったとか。

2001年、奄美に「田中一村記念美術館」が建てられ、
以降、各地の美術館で田中一村展が開かれているようです。

2006年には、一村の生涯を描いた「アダン」という映画も上演されたらしい。

作品展を見て思うのは、彼は幼くして神童と呼ばれたからか、
かなりこだわりがあって、自己主張もしっかりある人のような印象です。

東京美術学校へあのまま通い、あるいは、誰かに師事していたら、
もっと早く世に出てたのかも知れないですよね。

でも、奄美との出会いがなかったやろうし、
作風も、それなりのものになってたかもですけど。

南国の絵を描いてるので、日本のゴッホ、って呼ばれてるらしいですよ。

今日で終わってしまったので、また機会があれば、
見に行きたいと思います~



とにかく、最終の連休のせいか、人が多くて。
臨時駐車場に車を駐めたぐらい。