絵に目覚めた野之花ちゃんが、美大にすすみ、その道で見事に夢をかなえる話 … 、を窪美澄氏が描くはずがない。
高校の担任に勧められて美術教室に通い、講師である英則と求められるがままに肉体関係を結び、妊娠、結婚、出産。県会議員の息子であった英則との結婚生活は、もともと不釣り合いなものだった。
その家に嫁ぎながら、誰からも一人の人間として扱ってもらえない。自分が生んだ子供でさえその家の人間であり、決して自分に属するものではないのだとの思いが、彼女の孤独感を深めていき、とうとう赤ん坊を捨てて出奔する。その後の数年の人生はわからない(書いてあったかもしれない)。
高校卒業前の野之花を妊娠させた英則はどうしようもないボンボンだったが、一ついいセリフを語っていた。
野之花の才能を見抜き、一方才能だけで世を渡っていけるほど甘くないことも自覚していた英則は、野之花にこう言う。
~ 「おまえは、特別な何かをもっている。 … この世界で生きていくためには、求められるように、その特別な何かを、自由に形を変えていくことのほうが大事なんだ」 ~
作品の第一章は、野之花の40代終わり頃の話から始まっている。
故郷を捨てて、東京でデザインの会社を立ち上げ、そこに一人の若者が入社してくる現在の話。
しかし、その青年由人が入社したころから、不況で会社が立ちゆかなくなる。
寝る時間も惜しみ働く続ける暮らし、気がつくと恋人にも捨てられている状況のなかで、心療内科の薬を手放せなくなっている由人。
どうにも金策がつかず進退窮まる社長。
社長野之花の自殺をおそれた由人が、湾内に迷い込みニュースになっていたクジラを見に行こうと社長を誘ったところから、話が展開していく。
ふう、まだここか。
そのクジラのいる海は奇しくも30年前に野之花が捨てた故郷の海だった。
途中で、どう見ても壊れかけている女子高生の正子が道連れになる。
正子には姉がいた。その姉は自分が生まれる前に幼くして世を去っていた。
母親は、自分のせいで娘を死なせたという思いから離れられず、次に生まれた正子を大切に育てる。
ただしその大切さはいつしか常軌を逸したものとなり、朝から晩まで管理される暮らしに息苦しさを感じた正子は、不登校という形で母親に反抗するしかなかった。
唯一仲良くなりかけた友達が、難病で若くして亡くなったあとは、自分が生きている感覚さえ失いかけていた。ふらふらと家を飛び出したところを、くだんの社長と若者に拾われることになる。
で、旅行を続け、いろいろあって、いつしかその三人は疑似家族のような関係になる。
三人が三人とも本当の自分の家族とはうまくいっていない。
旅行を続けるために家族を装っているうち、自分が何にわだかまり、家族の何が苦痛になっていたのかをみつめていくようになる。
決して目新しくはないが、血がつながっているから無条件に家族になれるのではなく、家族であろうとするから家族になれる、というメッセージが立ち上がってくるのだ。
クジラのいる海岸、ある家に三人は泊めてもらうことになるのだが、その家のおばあちゃんが、最後らへんに語るセリフ。
~ 「もう自分が死ぬまでに体験する怖かことはぜーんぶ終わったとじゃ、ってそげん思ったと。じゃっで、ばあちゃん、死んだ正子ちゃん(注:女子高生とは別の正子)の代わりになんでもやってやろうて思ったとよ。 … 」おばあさんがやっと溶け始めたソーダアイスのはしっこを小さく囓る。
「それに、ばあちゃん、誰にも言ったことはなかどん … 」そう言いながら左手で右の肩をとんとん叩いた。「なんだか、正子ちゃんがいつもここにいるような気がしてね」
「正子ちゃんのここには、きっと、お友だちもお姉ちゃんも、おるとよ。正子ちゃんのその人たちの代わりに、おいしかもん食べたり、きれいなもんを見たりすればよかとよ。それだけでよかと。生き残った人ができるのはそいだけじゃ」
ときどき出てくるソーダアイスの使い方が実にうまい。
なんだっけ、玉虫がどうのとか言うつまんない小説を前に読んだ気がするけど、格がちがう。
「壊れかけた三人が転がるように行き着いた海辺の村で、彼らがようやく見つけたものは?」と帯にかいてあるけど、みんな壊れかけてるよね。けっこう。
この三人ほどドラマティックな人生を送る人は、表面上は少ないかもしれないが、同じくらい壊れかけているかもという自覚は、現代人なら誰しも思い当たるふしはあるのではないか。
本当に壊れている人ほどその自覚がうすいという例も、けっこうある。
「自分」とか、「私」とか、気がつくとソーダアイスのようにすぐに溶け出してしまう。
どんどんなめなきゃ。しょせんソーダアイスなんだから。
なんか、ものすごいあいまいなまとめになってしまいました。