午前中は会議やら明日の入学説明会の準備。午後は二部のダメだし、アンコール曲の合奏など。
卒業生の保護者の方にご不幸があり、お通夜に出かかる。
今年度は何回かあったなあ。同世代の方なので、身につまされる。
吹奏楽がとくいそうな宗派の式だったけど、はじめての経験かもしれない。
記帳をすませ焼香の列に並び、入場されるお導師様の背広姿が意外で、読経がはじまると、親戚縁者の方々もいっしょに経文を唱和される。
周囲からその声が聞こえてくると、ちょっと疎外感を感じてしまった。
それはつまり唱和されているご縁の方々にとっては、一体感を獲得するものであるということだ。
冠婚葬祭でしか接することのない親戚がいる。
えっと、あの人誰だったっけ? という方はいるものだが、たとえばお経がはじまって声をそろえられれば、たぶんそんな思いも氷解していく。
宗教は(突然話でか)、個人が何かを信じること自体よりも、同じ目に見えないものを信じる仲間がほかにいるという意識の方が大事なのではなかろうか。
そんな大層な感慨をいだく必要はまったくないけど、そんなことを思った。
部活でみんなで声をそろえてあいさつするのは、あいさつすること自体がもちろん大事だけど、同じ場所で同じ意識であいさつする仲間の存在を感じることに意義がある。
さらに周囲の誰かに見られながら、その振る舞いをする時に、その意識はより高まる。
いい意味で一体感が生まれやすい反面、排他的な集団になる危険性ももつ。
形のないものを信じることが宗教なら、神仏ではなく、愛とか夢とかを信じるのもひとつの宗教と言える。
神主さんの前で結婚し、クリスマスを祝い、仏さまになっていく日本人には宗教意識はないという人もいるけれど、「恋愛教」とか「自分教」の信者は相当多い。
「部活」も、ある程度「部活教」になっていかないと、なかなか高い目標に向かっていくのは難しいが、その度合いが強すぎると当然そこに入り込めない子には居づらくなるから、さじ加減がむずかしい。
昼を食べるタイミングが今日はなかったし、もどってやることがあったので山田うどんさんに寄った。
「あなたは何をしたいのか」「いったいどこに向かおうというのか」
多くのなじみ客がそんな思いを抱いたにちがいない「ミートソースうどん」を頼んでみた。
山田うどんさんの中で最も高いパフォーマンスを誇るメニューの一つ「肉南蛮そば」より10円高い490円である。
期待はずれだった。いや期待はしてなかった。正直言えば最初から怖いもの見たさのチャレンジだったのだ。
根本的なところで、ケチャップ味のものが食べたいという思いであのお店に入る人が、いったい何%をしめるのか。
そのへんをちゃんとリサーチしたうえでの、新メニューだろうかとの疑念を抱かざるを得ないが、当然ぬかりはないにちがいない。
だとしたら、一定数の注文はあるのだろうか。ないと思うけどなあ。うどんにかかったミートソース自体がまずいとは思わない。思わないがチーズの香りがしすぎるし、のっている温泉卵の効果にも疑問を感じる。
スパゲッティがうどんにかわっただけで、こんなに違和感がうまれるなんて。
クラシックの吹奏楽アレンジにも、がぴたっとはまるのと、うそ? というのとがあるけど、さもありなんと思う。
それにしても、この新メニューは残っていくのだろうか。
来月あたり、開発担当者が「くそっ! 10年早かったか」と歯噛みすることになりそうな気がするが、日本人の趣味志向も変化しているから、いつか日の目をみることもあるかもしれない。
ソース煮込みカツ丼以上に大きな(無謀な)チャレンジをされたことには敬意を表したい。