一つのフレーズ、一つのハーモニー、一つの音には、作曲者の人生があらわれる。
音楽に限らない。すべての芸術作品にはその作者の人生が刻み込まれている。
作品に限らず、ある人のふるまいや言葉は、その人の存在そのものから生み出されたものなのだから、その人という氷山のほんの一角が現れたものだ。
そっか、だから行動を変えるのは難しいのか。
「しっかり返事しよう」「きちんと宿題やろう」と指示して、それに対して元気よく「はい!」と応答されてても、その人自身が変わってなければ行動は変わらない。
行動が変わったなら、その人自身が変化したとも言える。
おっと、こんなことを書くつもりじゃなかった。
一枚の絵には人生がある、という話にもっていきたかったのだ。
原田マハ『楽園のカンヴァス』は、画家アンリ・ルソーのある作品を巡って、絵画に魅了され翻弄される人々の姿を描く。
現在(2000年)の倉敷に住む早川織江。美術館の監視員をしながらハーフの娘を育てるシングルマザーだ。 織江のもとにニューヨーク近代美術館に出張してほしいとの依頼がくる。
新聞社が社運をかけて開催する展覧会に、ニューヨーク近代美術館の所蔵するルソー作品「夢」が是非とも必要だ、それを貸し出してほしいと要請したところ、早川織江を窓口にするなら貸し出すと言う返答がきたのだった。
地方美術館の一監視員にすぎない織江の名前がなぜ出てくるのか。
新聞社が彼女の履歴を調べたところ、十数年前ソルボンヌ大学で美術史を学び才媛と言われたオリエ・ハヤカワであることがわかった。
現在MOMA(ニューヨーク近代美術館)のチーフ・キュレーターを勤めるティム・ブラウンとの間には、その昔一つのドラマがあったのだ。
時は17年前に遡る。スイス北端のある文化都市バーゼル。
この地で、ある絵の真贋を見極めてほしい、正解を出した方にその絵の権利を譲渡すると言って呼び出されたのが、フランス在住のオリエ・ハヤカワ、MOMAで働きはじめていたティム・ブラウン。若いながらも、当時アンリ・ルソーの研究者として第一線にいる二人だった。
一週間の期間が与えられるが、外部との接触は断たれ、与えられた一つの資料をもとに、ルソー作品と言われる「夢を見た」の真贋を判定しなければならない。
その資料とは、ルソーの登場する、フィクションともノンフィクションとも判別できない一冊の物語だった。そこには、およそ80年前のパリの様子が描かれ、アンリ・ルソー、ルソーが恋い慕う人妻のヤドヴィガー、そしてルソーの才能をいち早く見抜く若き日のピカソが登場する。
一日に読めるのはそのうちのわずか一章ずつだった。
その一章ずつが、この『楽園のカンヴァス』の各章のなかに順番に示されるという、劇中劇の構成がとられている。
そちらの物語自体がどうなっていくのかの期待も抱かせながら、現実世界(17年前)の二人を取りまく状況があきらかになっていき、なぜこの二人が、このように競わされるかの秘密も解き明かされていく。
ルソーの絵に隠された秘密、二人が置かれている当時の美術界の現実が、ミステリーの謎解きのようにあきらかになっていくバーゼルの七日目は、緊張感の高い章だった。
美術の世界ってどんなところなのか。
音楽の世界ならだいぶ実情がわかってきたつもりだが、美術の世界もなかなかにどろどろしたものはあるようで、一つの教養小説として楽しめた。
読み終えたあと、川越ブックファーストで「西洋美術史」の本を買ってしまった。
アンリ・ルソーって有名な方だったのね。
生前にはそれほど価値が認められず、死後評価されて有名になったタイプの方で、そういう芸術家の話は、音楽でも文学でもよくある話だ。
芸術作品を鑑賞し研究しているうちに、人生そのものが芸術に翻弄されてしまうのも、絵の世界だけの話ではない。
それを介して生まれる男女の結びつきもふくめて、芸術というのは、人を魅了する素晴らしいものとも、人の一生を狂わせる悪魔的なものだとも言えるだろう。
~ ティム・ブラウンは、MOMAの二階、絵画・彫刻部門のギャラリーの中でたたずんでいた。
彼の目の前には、一点の作品がある。ーーアンリ・ルソー「夢」一九一〇年。
平日の午後で、ランチタイムはとっくに過ぎていた。週末ほどの混雑はないが、それでもギャラリーの中はひとときの心の安らぎを求めて、大勢の来館者でにぎわっていた。
もうすぐ、オリエ・ハヤカワが来る。
ティムは、待ちきれない思いで、一足先にこの絵の前へ来てしまった。彼女が来館したら、誰と一緒に来ていようと、必ず彼女ひとりだけをここへ連れてくるように。アシスタントのミランダにそう言い残して、オフィスを出てきた。
待ちきれない。ほんとうに、もう待ちきれなかった。
十七年間、彼女と再会する日を意識して待っていたわけではない。けれど、思いはずっと彼女とともにあった。
いままでに、恋愛もしたし、結婚を考えた相手もいた。けれどいつも、心のどこかで、彼女を求めている自分に気づいていた。
バーゼルという名の楽園で、彼女とともに過ごした七日間。あの日々が、ティムの人生を変えた。 ~
80年前、17年前、そして今の物語が一つに重なっていく最後のシーンはこみあげてくるものがある。
出会いと別れ、幾星霜かをへだてての再会、ともに一枚の絵画がもたらしたものだ。
そういう偶然の運命を与える作品が、その人にとっての名画であると言えるかもしれない。