開店前に、全体合奏用の曲を一回だけやっておこうと始めてみたら、ぽりぽろと音間違いが聞こえてくる。
「こんなんなら演奏するなよ … 」と一瞬言いかけたが、本番の強い彼らのことだしなんとかなるかもしれないと期待して合奏を終えた。今日も開店直後には満員になる盛況ぶり。
途中、受付係を担当したり、ふらっと校内を回ったりしてみたが、こんな幸せな状況で文化部発表をやれている空間はなかった。ありがたいことである。
合奏も、アンサンブルも、回をおうごとによくなっていく。
つまりあれなんじゃね? 純粋にこれまでの練習量が足りてなかったんじゃね?
あたたかく見守ってくださる方々のためにも、もっといい練習をしていきたいと改めて思った。
パラリンピックでは、本校OBの高橋秀克くんもよくがんばった。
~ 柔道男子73キロ級 高橋メダル逃すも「精いっぱいやった」
柔道(視覚障害)の男子73キロ級。高橋は3位決定戦で敗れたが「精いっぱいやった。素晴らしい舞台に立てて本当によかった」と晴れやかな表情だった。1回戦は送り襟絞めで快勝。2回戦で敗れて臨んだ敗者復活戦でも、片羽絞めで一本勝ち。だが、3位決定戦で力尽きた。42歳の高橋は20年以上も柔道教室で小中学生に指導を続けている。惜しくもメダルを逃し「子供たちにメダルを見せてあげたかった。指導は続けていきたい」と話した。 ~
25歳で緑内障を患い、徐々に視力が失われていく過程のなかでは、つらい思いや、人に言えない苦労もあったことだろう。
しかし好きな柔道だけは続けることができた。
それは奥さんの高橋加代さん(事務室の向かって右側手前のおねえさん)の献身あってのたまものだが、その結果、目がふつうに見える人生では得られないようなすばらしい経験をすることができたのだ。
思うようにならないこと、つらいこと、やりきれないこと、自分ではどうしようもないこと、人生はなんでも起こりうる。それを自分でどう受け止めるでその後の人生が決まる、というのは、ありきたりだけど真実だと思う。何かを失っても、別の何かを神様は与えてくれる。
ザナルディ選手や高橋選手のように大きな困難を乗り越えてでなくても、われわれ自身日々の暮らしのなかで、いろいろなものを失い、またいろいろなものを与えられて生きている。
与えられていることにまったく気づかないと、人生はちょっとさびしいものになるだろう。
与えられていることに感謝できないと、さもしい人生になってしまう。
与えられていることを全く自覚できないと、生きていることが面倒になる。
しかし、何も与えられてないと思う人にしたって、そう思う頭は与えられたものだ。
そう思う頭をのっける身体は与えられたものだ。
自分で作り上げたものは何ひとつないではないか。
そもそもこの命は、自分の意志とは関係なく存在し、歴史上のある瞬間、突然この世に身体という形をともなって顕在化したものだ。
命を乗せるこのからだはレンタルビデオのようなものだ。
何日延滞しても追加料金はとられない。
ぼろぼろになって返しても弁償せよとは言われない。
ありがたいことではないか。
せいいっぱい使わせてもらおうではないか(藤原竜也に近づけたかな)。