この2学期、部を去って行った子がいて悲しい思いをしていたが、昨日新入部員が来た。
そうだよ、そういうことだってあるのだ。かたく握手をして、早速クラリネットでがんばってもらうことにした。
辞めていった子のひとりが、「時間の使い方として、部活をやり続ける分を勉強に使う方が、得られるものが大きいと思える」と話していた。部活や音楽が楽しくないわけではないけど、コストパフォーマンスがよくないという主旨だった。
なるほどね。楽器を練習してうまくなったとしても、そのうまさの度合いが数値化されるわけではないし、人間的に成長するとかいっても、目に見えて何かが変わるというわけではない。
それなら、同じ時間を勉強に費やし、点数や偏差値で成果を手に入れられるほうが、「やった感」「お得感」があるのはまちがいない。
いや、でも部活で「目に見えるもの」が手に入りそうだったら、その子は続けるだろうか。
たとえば、全国大会で金賞をとれそうなバンドだったり、部活でのがんばりが評価されて推薦で大学に行けたり。
その子の論理にのっとれば、その可能性が相当高いなら続けていくということになるのかもしれないから、そういう形での結果をつくってあげれない自分の責任が大きいと言わざるを得ないのだが。
ただ、目に見える結果や数値的な評価の獲得が、そして効率よくそうできることが一番だという考え方で生きることは、ほんとに幸せなのかなという疑問はもってしまう。
そういう発想だと、たとえば人を好きになれるか。
この人を好きになって、結婚にまで持ち込めれば、人としての幸せを手に入れられそうだ、よし好きになってみよう! と考えたりするだろうか。
一ヶ月交際して、プロポーズして、三ヶ月後に結婚してというスケジュールでいくのが一番効率がよい、よしこの路線で恋をしてみようと思うだろうか。
広末涼子はそうだった。「鍵泥棒のメソッド」で、そういうスケジューリングをして人を好きになろうとする涼子ちゃんを描いてた。
そして最後に、そんなのを超えた「きゅん」を設定した内田監督の手腕は見事だった。
あの映画を観た人がみな、帰りがけにいろんな人相手にきゅんきゅんしてしまうのではないかと思ったくらいだ。
計算とか効率で人を好きになれるものではないよ、部活も同じ面があるんじゃない、という意見に賛同してくださる方はいらっしゃるのではないだろうか。
じゃ、これはどうだろう。
この人とつきあってみようかな、かりにうまくいかなくても、そういう経験をすることによって、人として成長する気がする。よし、この人を好きになってみよう、恋してみよう!
これは「ありじゃん」と言う人もいると思う。
「自分を成長させる恋をしよう」とか、女性誌に書いてあるっぽくね?
でも、それは「恋」に失礼じゃないか。
自分の成長の手段にするなんて。
すいません、恋愛論を語るキャラでもないかと思うのですが、たとえなので。
部活も、それを通して成長する面は相当あると思うし、そういう部員たちの姿をたくさん目撃してきた。
でも、そうでない子だって、もちろんいる。だいたい自分自身が何か成長しているかといえば、特にない。
ひとつ言えるのは忍耐強くはなったとは思う。
人間的成長をするために部活をやる、そういう手段のためにやるという発想も、そんなに絶対的なものとうけとめなくていいような気がする。
そこに部活があったから、理由なく好きだから、やっている自分が自然だから、そんなんで十分だ。
効率などと言い出すと、けっこう真逆の位置にあるものだから、どんなに理屈を費やしてもうまく説明しきれない。
これは、「人はなぜ働くか」にもつながる重要な思考である気もしてきた。