急にお休みになった先生の代打ちで、あるクラスで一コマ授業をする。
一つ読み進めた問題演習は本田和子先生の文章で、こんな一節になるほどと思った。
~ 私どもは、事象を「物語」として、つまり因果関係的に一貫性を持った意味のまとまりにおいて把握することに、あまりに慣れすぎている。というより、それ以外には事象を受け止めるすべを知らないのだ。(本田和子『異文化としての子ども』)
大人と子どもの違いは何か。
何らかの事象を理屈で説明しきれないと、なんか気持ちわる~い感じになるのが大人。
わけわかんなくて平気なのが子ども。
誰かが何かをしでかしたときに、理由とか動機とかわかった方が気持ちいいでしょ? と問うと、みんなウンウンとするので、みんなそれは大人なんだよと話す。でも小学校の時とかの、わけもなくはしゃいでいた感覚も覚えてる? というとそれもわかるという。
自然科学の知を信じて疑わない現代人は、ものごとには必ず原因と結果があると考える。
でも、そうでないときもあるよね、大人=子どもの発展形というわけでは決してないんだよ、それはちょうど近代が前近代の発展形ではないのと同じようにね、とお手本のような現代文の授業をしてみた。
大阪の体罰事件で、これこれこういうことがあったからこうなった、という物語を、たとえばマスコミはつくっていて、われわれもあらたな情報を得るたびに、物語を書き換えては納得しようとする。
体罰を行った先生の科は弁護のしようもないが、わかりやすい物語をつくって、その先生だけを悪者にしてまゆをひそめているだけではいけない。とくにわれわれ同業者は自省的にならねばならないと思う。