1学年だより「役割」
イチロー選手や松坂大輔選手のように、小学生の頃からメジャーリーグで活躍することを夢見て、夢の実現に向けて努力を重ね、その結果として大輪の花をさかせることのできた人がいる。
いろんな分野で、そういう例をあげることはできる。
そして多くの人が「夢は叶う」と口にするし、そういう本もたくさん出版されている。
日本語を正確に用いるならば、「夢は叶う場合もある」「夢によっては叶う場合もある」というのが現実を表していると言えるだろう。
叶うかどうかは、「夢」の内容による。
イチロー選手のようになりたい、長友選手や香川選手のようになりたい、もしくは山中教授のようにノーベル賞をとりたいと思っても、現実的には難しいだろう。
もちろん、理論的には不可能ではない。
これから急に才能が開花するかもしれない。
しかし、現実をみつめたならば、みなさんにはMLBやプレミアで活躍する人生は与えられていなかったから、この学校で高校生活を過ごしていると考えた方が生産的だ。
それは決して、みんなに才能がないことを表さない。
別の場所で、別の分野で才能を開花させてほしいという指令が、天から下されているのだ。
今の時点では、それが何かをわからない人が多いと思う。
三砂ちづる先生(津田塾大学教授)はこういうお話を紹介している。
~ ある村に伝説があった。
ある年、ある日、ある時間にこのような風貌の旅の男が村の端を通るであろう、という。その男こそ観音であり、村に残り、村を救ってくれるであろう、というのである。
村人たちは、その日を心待ちにしていた。
その日、その時間がやってくると、伝説どおりの格好をした旅の男がやってきた。
村人たちは「お待ちしていました、あなたこそ観音です。どうぞこの村を救ってください」と言う。
実はその旅の男は、観音でもなんでもなくて、本当にただの旅人だったのだが、「あなたたちがそんなに言われるなら、わたしは、きっとそうなのでしょう」と言って、旅をやめ、その村に残り、その村のために尽くした、その男の働きは、村にとってとても役に立った、という。
その男はもちろん、もともと観音であったわけではない。しかし役割を受け入れることにより、観音ならずとも有為な人間として生を終えたのである。
役割を受け入れる、とはそのようなものだと思う。自分には到底そのような力はないと思っても、期待されることによって、役割を全うできる人間になっていく。 (内田樹・三砂ちづる『身体知-身体が教えてくれること』木星叢書) ~
他人から何らかの役割を求められたとき、それが才能の開花場所であることが多々ある。