学校の先生が主人公の映画と言えば、まず「ザ中学教師」が思いうかぶ。もう20年も前の作品だろうか。長塚京三扮する中学教師は、「埼玉プロ教師の会」の主張する教師像を具現化した作品だった。
直接のモデルになったのは、当時川越市立中学校に勤務されていた河上亮一先生である。今や鶴ヶ島市の教育長になられた河上先生が、映画の中では屋台のおでん屋のオヤジを演じていたのもなつかしい。
クラスにいじられタイプの生徒がいる。放課後のそうじ中に、女子達にいびられて嘔吐してしまうシーンが冒頭だった。で、いろいろあって、いろんな事件もあって、長塚先生の指導や苦悩も描かれて、それなりに解決していく。冒頭でいじられていた生徒も、クラス対抗駅伝の選手を務めたりして少し男らしくなっていく。最後のシーンは、放課後の教室そうじ。あいかわらず女子にからかわれているその男子だが、女子のリーダー的なからだの大きな子の胸をむぎゅっとさわって逃げていく。「お、おまえ、何すんだよ … 」とあっけにとられる女子の顔。
ローゲーからボインタッチという、中学生男子の成長ぶりをここまでみごとに象徴するシーンはなかなかつくれないよなと当時感心したおぼえがある。
プロ教師とは、生徒を正しく管理できる教師である。そういう教師の指導のもとで、子ども達は成長することができるというメッセージがこめられた作品でもあった。
「告白」「嫌われ松子の一生」「北のカナリアたち」など、主人公の職業が先生である名作は数々あるが、先生の教師性そのものを正面から描いた映画として、この「鈴木先生」は金字塔と言いたいくらいよかった。
「ザ中学教師」に比べると、こどもの成長よりも教師自身の成長が描かれている。
長谷川博己演じる鈴木先生は、30歳前後ぐらいの設定だろうか。ちょっとおれのマネしてるようなメガネをかけたスラっとした若者で、でも他の先生とのやりとりもおちついているので、ペーペー感はない。
ぺーぺーでないどころか、自分なりの教育方針を確立していて、それが正しいかどうかを実験するのが自分の教育実践であるという、大人びた思想をもっている。
「学校の先生は、不良の指導に時間を費やしすぎている。そのせいで、まじめに生活している普通の生徒たちがないがしろにされている。そういう子たちの中にも、どう生きたらいいかわからずに悩んでいる子はたくさんいる。そういう子をしっかり指導したい」という認識も、冷静で実に大人だ。いまふうに言うとクールだ。
同時に、かわいい教え子との淫らに妄想にときどき浸ってしまう煩悩を、なんとかふりはらおうとする一面があるのもリアルだ。
テレビドラマとして10話放映され、第11話としてつくられた映画化された本作では、勤務校の卒業生が事件を起こす。
卒業生が鈴木先生のクラスの子を人質にとって立てこもる事件は、鈴木先生の思想を、いや教師としてのありようといっていいかな、それがゆさぶられるような事件だった。
それを、教え子とともに乗り越えることで、またひとまわり成長するという、まことに正統派の作品だ。
鈴木先生がHRでこんなふうに語る。
「先生は、先生を演じているんだ。みんなも生徒を演じてみるといい」
これは、まさに「プロ教師の会」の主張ではないか。
教師は教師という役割を仕事として果たし、生徒は生徒としてふるまう。
あたりまえといえばあたりまえの姿なのだが、そのように自分が何を演じるべきなのか、演じるためにどういう力が必要なのか、それを理解し身につけていくのが学校なのだろうなとあらためて思う。テレビも見ておけばよかったなあ。